以前、ツルニチニチソウ絡みで
ナイオ・マーシュの
『道化の死』(1956)
という小説にふれましたが
(清野泉訳、国書刊行会、2007.11.20)
同書の訳文で一箇所
バロック音楽ファンなりに
気になったところがありまして
それについて少し。
『道化の死』は
地方の村を舞台にしており
村の鍛冶屋が
その村に古くから伝わる
民族舞踊の踊り手
という設定です。
その民族舞踊は
村人と近郊の人間以外に
知られておらず
それを調査に来た
ドイツ人の女性民俗学者が
鍛冶屋の練習風景を覗き見する
という場面があるんですけど
そこで次のようなフレーズが出てきます。
ふいごが使われていた。炉の赤い輝きが壁に反映してリズミカルに揺れている。(略)炉の奥の暗い片隅では、ランタンのそばで男が屈みこみ仕事をしていた。民俗学に対するビュンツ夫人の好奇心は、一見したところ風変わりではあるが、鋭敏で活発だった。このとき彼女はヘンデル『調子のよい鍛冶屋』の舞台裏の調べを律儀に思い浮かべながらも、同時に魂の喜ばしい平穏も覚えていた。(p.30)
上に引用した部分にある
「『調子のよい鍛冶屋』の
舞台裏の調べ」
というところが
気になったんですね。
ヘンデルで
「調子のよい鍛冶屋」といえば
チェンバロ曲であることは
バロック音楽ファンなら
よくご存知かと思います。
チェンバロのための組曲
第5番 ホ長調 HWV430 は
プレリューディウム
アルマンド、クーラント
エアーという
4つの楽章で構成されていて
最後のエアーは変奏曲になっており
通称「調子のよい鍛冶屋」
と呼ばれています。
ただしこれは
ヘンデルが名づけたのではなく
誰が名づけたのか
不明のようですけど
それはそれとして。
「調子のよい鍛冶屋」と
呼ばれるようになったのは
低音パートで同じ音型が反復持続される
保続音が第1変奏に登場し
鍛冶屋が金床を打つ音を
連想させるから
ということになっています。
上で引用した部分で
「舞台裏の調べ」と
訳されているのは
原文ではどうなっているのか
分かりませんけど
その保続音のことでしょう。
低音パートで
流れているわけですから
バックグラウンドで、とでも
書かれてるんでしょうか。
最初に読んだ時は
舞台作品のタイトルか何かと
誤解したのではないか
と思ったものでした。
でも、じゃあ
どういうふうに
訳せばいいかとなると
「保続音の調べ」と訳すのも
こなれていない感じで
なかなか難しい。
でも「舞台裏」は
やめてほしかったなあ
とは思うものの
自分にしたところで
バロック音楽好きでなく
ヘンデルの同曲を聴いてなければ
気にもしなかったでしょうけど。
問題の箇所が
保続音を指しているのではないか
というのは
実際に聴いてれば
一発で分かります。
翻訳が出た2007年当時
新譜CDがあったかどうか
分かりませんけど
ちょっと聴いてみれば良かったのに
とか思ったり。
こういうことがあるから
翻訳業も大変です。
まあ、ミステリの場合
トリックやプロットに関係のない
こんな些細な描写部分は
誰も気にしないかも
しれませんけど。
ただ
実際に曲を知っていると
上に引用した箇所の
興趣も増しますので
聴いてみることを
おすすめします。
今なら検索すれば
YouTube にアップされた
演奏動画が
簡単に観られます。
ただ、主として
ピアノでの演奏が
アップされているようですけど。
やっぱり
チェンバロ演奏が
おすすめなわけでして
自分の推奨盤などについては
また次の機会にでも。