『灰色の部屋』新カバー版

(1921/橋本福夫訳、創元推理文庫、
 1977.6.10/2016.9.9. 第4刷)

勉強会のテキストになったので
『真田啓介ミステリ論集
 古典探偵小説の愉しみ』全2巻
(荒蝦夷、2020年6月12日発行)を
通読しているところです。

第1巻で取り上げられている作品は
おおむね目を通しているんですが
(鮮明に憶えているわけではないですけどw)
第2巻で取り上げられている作品の中に
未読のものが何編かありましたので
ただ今それらを読んでいる最中。

フィルポッツの『灰色の部屋』も
その流れで目を通しました。


今回、手にとったのは
上掲の写真でも分かる通り
2016年に再刊された新版です。

旧カバー版を

買ってあったはずなんですが
ちょっと探してみたら出てこないので
Amzon で古本を購入しました。

とんでもない値段になってたら

どうしようと思っていたのですが
幸い、復刻されて間もないこともあり
それなりに納得できる値付けでした。


『灰色の部屋』のメイン・トリックは
トリック紹介本などで明かされて
何となく知っていました。


それもあって

旧版も買ったまま
放っておいたんですが
今回、読んでみてびっくり。

トリック自体は、まあ
あらかじめ知っていた通りで
驚くには当たらないのですが
書きっぷりというか
ストーリーテリングの見事さに
感銘を受けた次第です。


『灰色の部屋』は
その部屋で眠れば必ず死ぬという
死の部屋をテーマとしており
密室トリックの作品として
目されてもいます。

そのトリックは
例の、ジョン・ディクスン・カーの
『三つの棺』(1935)において
名探偵フェル博士が言及しており
トリックだけを取り出すと
現代では通用しないような
古めかしいものです。

ところが物語の語り口が面白く
まあ、宗教的な議論など
すべてが理解できたとは言いませんが
話のすすめ方に
本格ミステリに通じるものを
感じさせたのでした。


訳者あとがきでは本書について
「なんとも定義のしにくい小説」で
最初の内は幽霊小説かと思わせられ
ついで怪奇小説か恐怖小説の類い
という気がされた後
結局は推理小説の一種だという気になる
というふうに書かれています。

なるほどおっしゃる通りなんですが
怪奇小説や恐怖小説の類いだと
訳者に思わせるような部分、
二人もの犠牲者が出た後で
宗教家が信仰を楯に
謎を暴いてみせると言って
死の部屋に閉じこもり
同じく犠牲になるあたりの展開は
ミステリとしてみた場合
超常現象であることを否定する
根拠となっているという点を
見逃すべきではないと思います。


ある種の謎が存在し
それに対するアプローチとして
物理的現象に拠るものだという
合理的な説明がつく

という立場からの調査が

試みられる。

普通のミステリなら
それによって解決するわけですが
『灰色の部屋』では

それが失敗したあと
超常的現象ではないかという方向に
謎へのアプローチが揺り戻される。

その揺り戻し自体は
論理的には正しいものではないか
というふうに感じられるわけです。


物理的な調査が徹底され
論理的に説明されなければ
宗教的な論理による解決を図るというのは
現代人からすればおかしく感じられても
それなりに信仰心の厚い時代の人々の
消去法のありようとして
それなりに納得できるように思います。

 

作中にも出てきますが(p.189)

当時、お馴染みコナン・ドイルや

オリヴァ・ロッジ卿という物理学者までも

心霊学に傾倒していた時代で

そういう時代だったことを

忘れてはならないでしょう。


本書が面白いのは
宗教家が失敗して死んでしまったとき
死の部屋を有する館の持ち主が
宗教家が失敗したからこそ
自然界の物理現象として
合理的な解決があり得ると
回心することです。

そしてそれは
謎へアプローチしようとする
読み手に対する手がかりというか

ある意味、挑戦にもなっているわけです。


最初の犠牲者は
ゲーム感覚で死の部屋で一夜を過ごし
死んでしまう。

第二の犠牲者は
近代合理主義の立場から謎に挑み
あっという間に死んでしまう。

(ちなみに、この
 第二の犠牲者が死ぬ

 という展開には
 かなり驚かされました。

 近代的なミステリを
 読んでいればいるほど
 びっくりすると思います)

第三の犠牲者は
宗教的立場から謎に挑み
やはり命を喪う。

そこでスコットランド・ヤードが乗り出し
4人の刑事が死の部屋に泊まり込むのですが
彼らは無事に過ごしてしまう!

なぜヤードの刑事たちだけ無事だったのか。

ここまで読み来たった読者は
強烈な謎にぶつかるのではないでしょうか。


少なくとも四通りの状況が
示されているわけですから
普通の本格ミステリであれば
その状況の違いから謎に迫っていく
という展開を見せるでしょうけど
本書の場合はそうではなく
ある知識を備えたイタリア人の登場で
急転直下、解決を見せる

という展開となります。

後半になって真の探偵が登場して
事件を解決するというのは
同じフィルポッツの
『赤毛のレドメイン家』(1922)にも
見られた構成です。


後半、イタリア趣味が出てくるのも
『レドメイン』を彷彿させ
やってるやってる、という感じで
ニヤニヤさせられました。


小説の書きっぷり自体は古風ですけど
ミステリとしてみたときの構成は
その時代なりに論理的であって
今、本書を評価するとしたら
その点を押さえる必要があると思います。

「隠れフィルポッツ・ファン」

(前掲書・第2巻、p.117)
と自称する真田啓介も
そこを誉めているかと思ったんですが
「(再読してみても)依然として
この作品は小生には面白くありません」
(同、p.120)と書かれていたのは
残念でした.


真田の考察だと
中盤の形而上学的議論
(当方のいう宗教的議論)は
第三の事件を自然に成り立たせるための工夫
となっています。

なるほどとは思うものの
それは作者側の工夫であるだけでなく
「科学の眼」に対し「信仰の眼」で

謎に挑もうとした人間が破れることによって
もう一度「科学の眼」に
可能性を見出させるという展開が
読者の推理を促すことに注目すれば
本格ミステリとしての可能性を
見出せたのではないか
と残念に思えてならないのでした。


真田啓介が取り上げなければ
『灰色の部屋』を読むのが
さらに先になっていたでしょうし
その意味では取り上げてくれたことに
感謝したいくらいです。

小説の書きっぷりは古臭いし
トリックも何だかなあ
といった体のものですが
(そもそも密室ものとして
 読むべきではないでしょう)
本格ミステリにおけるロジカルな展開
というものを意識させるという点で
無視できない一編でした。


ところで

上にも書いたように
今回、手にとったのは改版ですが
いくつか誤植に気づきました。

中には
「刑事」を「軽自」とするような
(251ページ、4行目)
底本を打ち直したのでないと
ありえないようなミスもあり

もしそうなら
校正をちゃんとしてほしかった
と思わざるを得ません。


あと

これは誤植ではありませんが
「蠟燭がソケットまで
燃えつきていたはずですからね」
(p.328)という訳文には
鼻白まされたことでした。

手許の新明解国語辞典(第三版)にすら
「[socket=あな。受け口]」
と書いてあるくらいですから
「蠟燭の受け口」ないし「受け皿」とでも
校正で直してほしかったところです。


次に再版された際には
これらが修正されていることを
願いたいところ。

もっとも

再版されるかどうか

微妙なところではありますが

本格ミステリ・ファンなら

一度は目を通しといてもいい作品だけに

何年か後に再版されることを

期待したいものです。

そのころには

『灰色の部屋』が秀作であることが

広まっていればいいなあ

と願わざるを得ません。


長文乱文深謝。