前回、取り上げた

サラ・ミンガルトのCDを探していたのは

ティツィアーノ・スカルパの小説

『スターバト・マーテル』(2008)の

「著者ノート」であげられている

「自分の好みのヴィヴァルディの録音リスト」に

2002年の新盤(Opas 111/Naïve)が

あげられていたからです。

 

スカルパ『スターバト・マーテル』

(中山エツコ訳、河出書房新社、2011.9.30)

 

少し前に古本で買って

未読のままだったんですが

ちょうどいい機会なので

読んでみました。

 

ちなみに

カバーのパラフィンは

自分で掛けたものではなく

古書店の方でかけたものです。

 

 

本書は

ヴィヴァルディが音楽監督を務めた

ピエタ養育院を舞台とする小説です。

 

ピエタ養育院は

女児の捨て子を養育する慈善施設で

才能があれば音楽教育が施され

養育院が開くコンサートで

歌ったり演奏したりする機会が

与えられました。

 

ヴィヴァルディは

1703年から1740年まで

ピエタ養育院での音楽教育に携わり

演奏会用や宗教儀式用の作品を

提供してきたわけです。

 

 

スカルパの小説は

ピエタでヴァイオリニストとして

教育を受けた少女チェチリアが

会うことの叶わない母親に語りかける

手紙の断片の集成という形式で

孤独にさいなまれ死を想う

少女の内面を描いていきます。

 

ヴィヴァルディをモデルにした

アントニオ神父は

小説の中盤から登場し

《四季》や《勝利のユディータ》の

作曲の背景が描かれるのですが

(実際の背景とは異なります。念のため)

後半に至るにつれて

かなりデモーニッシュな

振る舞いを見せるようにもなります。

 

後半、チェチリアに対し

ある働きかけをするんですけど

どうしてそこまでするのか

何が目的だったのかが

今ひとつよく分からない。

 

さらに、その働きかけによって

何かに取り憑かれたように

ヴァイオリンを弾きまくるチェチリアが

憑き物が落ちたのか

最後にとる行動は唐突で

これで終わりなの?

と思わざるを得ませんでした。

 

 

謎解きの興味を主軸とする

ミステリではありませんので

分からないところや

論理の飛躍などがあっても

かまいませんし

それなりの解釈が

思い浮かばないでもありません。

 

ただ、最後のチェチリアの行動には

それなりに準備や協力者が

必要なのではないかと思います。

 

英米の小説であれば

そういうところも

ちゃんと書き込む

という印象がありますけど

そういう英米型の小説作法に慣れると

スカルパの小説のラストは

ちょっと納得がいかないのでした。

 

 

まあ、小説は小説として

音楽や原罪をめぐる

箴言めいた言説は

なかなか面白かったです。

 

長くなりますけど

印象的な箇所をいくつか

引用しておくことにします。

   *

シスター・テレーザが

チェチリアに語る

次のような言葉。

 

「わたしたちはみな、原罪という腐敗を背負っています。誰もが、ひとり残らず。主の前でわたしたちを区別するのは生まれの違いではありません。罪なく生まれるものなどいないのだから。貴族の娘だって罪人として生まれ、神の目にはわたしたちに比べて優れているわけではありません。原罪は神の恵みです。権力者も弱者も、貴族も貧乏人も、すべての人を平等にするのだから」(p.75)

   *

見知らぬ母親に対する手紙の言葉が

音楽的な旋律になると語る

チェチリアのモノローグ。

 

考えとそれを表す言葉とは、和音になります。同時に演奏されるふたつの音のように、それはあるときには調和し、またあるときには調子はずれに響く。//言葉の音とその意味とは和音になり、文章は対位法の旋律のようにやわらかくくねっていきます。//意味は言葉の通奏低音。言葉の旋律がその意味するものと調和することもあるし、不適当で耳障りなこともあります。ときにはひとつの文章が、その身と照らしてなんとも巧妙な調子はずれを生みだすこともあります。(p.112)

   *

アントニオ神父の協奏曲が

初めて演奏される日の

チェチリアのモノローグ。

 

教会の底にすわった、この何十もの耳は、その沈黙でもってわたしたちの伴奏をしていました。彼らもオーケストラの一部なのです。音楽に注意を傾け没頭しているいくつもの頭は、演奏にあって主要な楽器をなしています。観客がいてこそ、ほんとうの演奏です。支えてくれるたくさんの耳なしには、音楽は存在しません。(p.118)

 

ピエタでのコンサートは

教会の左右の中廊(?)に設置された

柵で囲まれたステージで

演奏されたらしい。

 

聴衆からすると

見上げるようになる位置から

(すなわち天上からのように)

音楽が聴こえてきたわけですね。

 

聴衆を「教会の底にすわった」

「何十もの耳」だと

チェチリアがいうのは

そういう状況だからです。

 

新型コロナ禍で

無観客ライブ配信が

行なわれるようになった今日び

いろいろと考えさせられる箇所でした。

   *

アントニオ神父が

新しい協奏曲を持ってきたとき

それが以前の協奏曲と

同じであることに気づいて

不満を覚える生徒たちに

楽器やパートの配分が違う

と応えるアントニオ神父は

続いて次のよう言う件り。

 

「この旋律をヴァイオリンではなくオーボエにあてたらどうなるか、試してみたかったのだ」(略)「こういうふうに演奏しても、同じ着想であり続けるだろうか。わたしたちの中でなにかが起こる。だが、それがわたしたちの中だけで起こるに任せていてはだめなのだ。それができる限りいい形で世界に出てこられるように、そのなにかを助け、考えなおし、書きなおし、異なるふうに演奏しなければならないのだ」(p.133)

 

 

巻末の「著者ノート」には

作中に出てくる《四季》や

《勝利のユディータ》の愛聴盤の他

自分好みの録音盤のリストが

1ダースほど、あげられています。

 

ほとんど

持ってない盤だったので

自前の探求リストに

また新たな盤が

加わることになったという。( ̄▽ ̄)

 

いちばん古いもので1990年、

いちばん新しいものでも

2007年のリリースで

しかも日本流通盤が

出ていないものばかりと思われますし

いつ揃うのか、そもそも揃うのか

想像も見当もつきません。

 

でもまあ、ミンガルト盤が

見つかったことでもありますし

地道に探してみようか

と思ったりしている

今日この頃なのでした。

 

我ながら因果な性分だなあと

つくづく思う次第です。(´(ェ)`)