(1956/鈴木豊訳、創元推理文庫、
1961.4.21/1975.12.26. 第7刷)
フレデリック・ダール
『甦える旋律』の前年に
フランス推理小説大賞を受賞した
ミッシェル・ルブランの第2作で
本邦初紹介作です。
例によって昔
古本で買っておいたもので
読むのはこれまた例によって
今回が初めてです。(^^;ゞ
映画女優のシルヴィー・サルマンが
死体となって発見された翌朝
殺したのは自分だという男が
警察を訪れます。
事件を担当するトゥッサン警部が
話を聞き終わったところへ
今度は別の人間から
自分が殺したのだという
告白の手紙が届きました。
ところが
二人が自白している犯行方法と
現場の状況とが明らかに異なるため
二人とも犯人とは思えない……
というお話です。
告白の手紙の後
真犯人の内面描写が始まり
読み手に犯人の正体が分かると同時に
一種の倒叙ミステリのような展開を
見せていくんですけど
小説としてのミソは
様々な関係者の語りを通して
シルヴィーという女優の真実を描く
というところにあるんでしょう。
『世界ミステリ作家事典
【ハードボイルド・警察小説・サスペンス篇】』
(国書刊行会、2003)で
ルブランの項目を書いている平岡敦が
「映画『イヴの総て』に
着想を得たらしい設定も興味深い」
と書いています。
アメリカ映画『イブの総て』の
フランスでの公開年は分かりませんが
アメリカでの公開年は1950年ですし
映画もルブランの小説も
女優がのしあがる過程を描いていますので
たぶん平岡の指摘は当たっているかと。
映画女優が多くの人を踏みつけにして
のしあがっていく物語というのは
今日、消費されすぎているためか
今ひとつ通俗的な臭みが拭えないのと
また、読んでいる自分が庶民的過ぎて
物語世界がリアルに感じられないため
今ひとつ話に引き込まれない
というのが正直なところだったりします。
小説ではなく映画で観たなら
また印象は違ってたでしょうけど。
ちょっと面白かったのは
真犯人の内面で
それまでの生活を振り返る際
映画のシーンのように語る文体。
おそらく原文で読むと
スピーディーで新鮮な印象を
与えるのではないか
と想像されます。
あと、最後のオチというか
予想される結末は
皮肉が利いていて良いかも。
物語の内容とは別に
シルヴィーに籠絡された夫が
妻に別れを告げられるとき
ヴィヴァルディの
チェロ協奏曲 ホ短調のレコードをかける
というシーンがあって
おやっと思いました。
ヴィヴァルディには確かに
ホ短調のチェロ協奏曲が
あるんですけど(RV 409)
ここで流れるのはそれではなく
チェロと通奏低音のためのソナタを
協奏曲に編曲したヴァージョン
だと思われます。
調べてみたら
そういう編曲ヴァージョンがあって
しかもフランス人の音楽家が
編曲していることが分かったので。
時期的にいって
ピエール・フルニエが
カール・ミュンヒンガー指揮の
シュトゥットガルト室内管弦楽団と
共演したレコードではないか
と思いますけど
どうかしらん。
原題は Pleins feux sur Sylvie で
厚木淳による文庫の解説では
「蜂の巣になったシルヴィー」
という意味だと書いています。
でも「蜂の巣になった」だと
ちょっと未読の方の楽しみを
奪いかねない嫌いもありますし
3人の人間が殺そうとした
というプロットを鑑みるなら
「シルヴィーへの集中砲火」
と直訳するのがいいかも。
「何度も殺られるシルヴィー」とか
「殺されすぎたシルヴィー」
というふうに意訳すると
面白いんじゃね、と思いつつ
現行の邦題を活かして
「殺人死重奏」ないし
「殺しの死重奏」とでも訳すのが
いいのかもしれないとも思ったり。
こんなふうに考えてみると
今の邦題はよく練られていて
知恵をしぼった跡が偲ばれますね。