『不条理な殺人』

(1967/戸田早紀訳、創元推理文庫、2018.11.16)

 

パット・マガーといえば

『被害者を捜せ!』(1946)以下

普通の犯人探しではない趣向のミステリを書く

技巧派作家として知られています。

 

被害者探し、探偵探し、目撃者探し

などの趣向を取り上げてきて

技巧派という色が付いていたこともあり

『四人の女』(1950)以降の作品は

通常のミステリになったから

ということなのか

翻訳が止まっていました。

 

それが昨年末になって

まず10月に論創社から

『死の実況放送をお茶の間へ』(1951)が訳され

続いて翌月に本書が刊行されました。

 

ここにきて、なぜか

時ならぬマガー祭りとなったわけです。

 

 

『死の実況放送をお茶の間へ』の方は

すでに昨年のうちに読み終えてますが

テレビのバラエティ放送中に起きた

殺人事件を扱ったミステリで

黎明期のテレビ放送の舞台裏を垣間見せる

という面白さはありますけど

それを除けば普通のフーダニット(犯人探し)

という印象です。

 

そちらに比べると

(間なしに出たので

どうしても比べてしまうのですが)

今回、読み終えた『不条理な殺人』は

マガーの技巧派ぶりが発揮されている

という印象を受けました。

 

 

17年前に父親を失った青年が

父親同様、脚本家の道を志し

その戯曲が上演されることになります。

 

それを知った義理の父親は

かつての事件の記憶が

歪んだ形で表現されているのではないか

それによって

新たなスキャンダルが起きるのではないか、と考え

自身が名の知れた役者だったこともあり

義理の息子の意図を探るために

その舞台に立とうと思い立ちます。

 

 

義理の息子は17年前の事件について

どこまで知っているのか

それを作品に書き込んでいるのかを

突き止めようとするわけですから

それ自体に謎解きの興味があるわけです。

 

それに加えて

戯曲のフレーズが引用されたり

戯曲の解釈を巡っての

ディスカッションがあったりするので

ちょっとしたメタフィクション的な面白さも

感じられました。

 

さらには

アガサ・クリスティーが得意とした

あるプロットの趣向を思わせもするというか

そういうプロットの話だと

隠そうとしているようにも読めるし

そうでないようにも読めるという

何とも微妙な書き方をしています

(個人的な印象ですけど)。

 

全体としては

演劇人を巡る普通小説のようなんですけど

17年前に何が起きたのか

徐々に徐々に分かってくるプロットと

舞台が成功するかどうかというプロットとが

うまい具合に絡み合って

サスペンスを醸成し

ページを繰る手を止めさせないあたり

お見事というか、感服しました。

 

 

嫌な女性キャラクターが出てくるのは

『死の実況放送をお茶の間へ』と

同じといえば同じですし

全体としてみた場合

プロット作りにおける

マガーの手癖みたいなものが

透けて見える気がしないでもありません。

 

ただ本書の場合

表面的には暴君キャラには見えず

男性パートナーとの関係だけでなく

母子関係が絡んでくるので

そこに深みや奥行きが

感じられた次第です。

 

 

かてて加えて興味深いのは

アメリカ・ミステリ

特に、男性作家が書く

ハードボイルドに顕著な

ミソジニー的傾向が

本書にも見受けられる点。

 

女性作家が

ここまで典型的な

ミソジニーなプロットを立てていることに

ちょっと驚きました。

 

 

解説では

作品が書かれた1960年代は

「女性解放を謳う

フェミニズムの火の手があがって

間もない時代」(p.296)であり

マガーを

「フェミニズムとはまた別の次元で、

女性の圧倒的な存在感を

描いた作家でもあった」(同)

と位置づけてますけど

自分はこの見解に納得できません。

 

フェミニズムを

「女性の圧倒的な存在感」を示した運動だ

というふうに理解しているのは措くとしても

(そう理解しているようにしか読めません)

本書のミソジニー的傾向は

男性の論理を内在化して疑わないという

むしろアンチ・フェミニズムの傾向を

示しているような気がしてならないからです。

 

それでも、たとえば

女性の解放を阻む

男性中心社会の抑圧的状況を

象徴的に描いている、とか

あるいは、もっと作品に即して、

マーク・ケンダルのありようが

サヴァンナの自立を阻んでいる原因に

他ならないことを剔抉している

というふうに捉えるなら

フェミニズムの時代にふさわしい作品

ということもできるでしょうけれど。

 

自分の振る舞いが

サヴァンナにもたらした結果に

ケンダルが多少なりとも自覚的であると

読めなくもない点は

あるいは、フェミニズムの時代らしい

と、いえなくもないかもしれません。

 

 

そうはいっても、やっぱり

基本的に

男が女を崇拝しながら

実は馬鹿にしていることを

結果的にあぶり出している作品

ぶっちゃけ

女を馬鹿にしている男を描いている

作品だと思ったんですけれども。

 

それは時代の症候

ないし、その痕跡が

見事に刻み込まれているともいえ

それが本書の小説としての面白さであり

マガーの才能をよく示しているように

個人的には思った次第です。

 

 

本書を契機として

マガーの未訳作品が

次から次へと訳されると

嬉しいんですけどねえ。

 

 

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