『否定と肯定』原作(文庫本)

(2005/山本やよい訳、ハーパーBOOKS、

 2017.11.20)

 

同題の映画の原作です。

 

出た時に買っておいたんですけど

読んでから観ようと思っている内に

東京での映画の上映が

終わってしまいました。(´・ω・`)

 

 

ホロコースト否定論者の

イギリスの歴史家が

自説を批判されたという

名誉毀損訴訟を起こします。

 

本書は

被告側のアメリカ人学者が

訴えられてから結審するまでの

裁判の体験を描いた

ノンフィクションです。

 

 

600ページ近くある本文の

およそ3分の2程度が

裁判シーンに当てられてますけど

それはむしろ望むところ。

 

三原順のまんが

『はみだしっ子』part 19

「つれて行って」の

法廷シーンを読んで

裁判を描いた小説に興味を抱き

何冊か読んだこともあり

この手の話は割と好きなのです。

 

ページを繰る手が止まらず

あっという間に読めてしまいました。

(実質的に2日かかったけれどw)

 

 

ホロコースト否定論者を批判したのは

アメリカの学者で

批判された否定論者が

訴訟を起こしたのは

イギリスで、でした。

 

アメリカとイギリスとでは

法制度が違っており

アメリカでは訴えた方が

名誉毀損であることを

証明しなくてはならないのですけど

イギリスでは訴えられた方が

証明しなくてはならないそうです。

 

つまり

ホロコースト否定論者の

著書の誤りを

批判した方が

証明しなければならない。

 

そのために

否定論者の主張を

いちいち検証するという

理不尽としかいいようのないことを

強いられてしまうわけです。

 

これが小説なら

英米の法制度の違いに注目した

アイデアの秀逸さを

評価するところですが

これが実話だというのだから

びっくり。

 

まさに

事実は小説よりも奇なり

といったところ。

 

それ以外にも

イギリスとアメリカでの

司法制度の違いなどに言及されており

法廷もののミステリを読む上でも

教えられることが多い内容に

なっています。

 

 

「まえがき」を書いているのは

映画の方の脚本を書いた

デイヴィッド・ヘア。

 

ホロコーストものの脚本は書きたくない

ホロコーストについては

下手に演出を加えるよりも

事実(証拠)そのものに語らせるのが一番

という考え方だったそうです。

 

にもかかわらず

本書の脚本化を受けたのは

ホロコーストについて

脚色を加える必要がないからだとか。

 

また

本書の脚本化を受けた一番の理由は、

公人が何の根拠もないことを主張し

最後に私見だと付け加えることによって

主張を正当化することを許されるようなことが

特に政治の世界で起きていることに

懸念を抱いているからだそうです。

 

ヘアは以下のようにも書いています。

 

「インターネットのこの時代、

誰もが自分の意見を述べる権利を持っている

と主張するのは、一見したところ

民主的なことのように思われる。

確かにそうだ。しかしながら、

すべての意見に同等の価値がある

と主張するのは致命的な過ちだ。

事実に裏打ちされた意見もあれば、

そうでない意見もある。そして、

事実の裏打ちがない意見は

はるかに価値が低いと言っていい。

(略)

言論の自由には、

故意に偽りを述べる自由が

含まれているかもしれないが、同時に、

その偽りを暴く自由も含まれている。」(p.11)

 

ポスト真実が問題となっている昨今

肝に銘じておきたい言葉ですね。

 

 

今回の裁判によって

「他の歴史家が用心深くなり、

言論の自由が損なわれてしまう」

という批判もあったようですが

今回の裁判は

「偽りを暴く自由」を阻止するために

名誉毀損としての訴えを起こしたわけで

それを無視して批判するのはいかがなものか

という疑問が本文中にも書かれていました。

 

最近、日本でも話題になっている

いわゆるスラップ訴訟

(恫喝訴訟)にあたるものです。

 

これを示談で済ませてしまうと

言論の自由が抑圧されるだけでなく

ホロコースト否定論を

容認することになるだけあって

引くわけにはいかない

という状況に追い込まれるあたり

小説としたらお見事

といいたくなるくらいですが

これが実話だというんだから

事実は小説より(以下略)。

 

 

裁判が終わった後に

作者は以下のような感慨を抱きます。

 

「反ユダヤ主義も、

その他あらゆる種類の偏見も、

理性とは無縁のところに存在するため、

誤りを証明することができない。

それゆえ、あらゆる世代が

偏見と戦っていかなくてはならない。」(p.532)

 

偏見は理性とは無縁なので

誤りを証明することはできない

といわれると

無力感にさいなまれますが

かといって偏見を許しておけば

それが「真実」になってしまうから

(「真実」だと認めたことになるから)

不断のチェックが必要だ

ということでしょう。

 

もともと民主主義や

その下での言論の自由というのは

そういう不断のチェック抜きに

成り立たないものであることを

述べているともいえそうです。

 

 

また、最後のパラグラフは

次のようなものです。

 

「他の者を煽動して、

直接的もしくは間接的に

こうした行動(テロなどの暴力行為)を

とらせる人々に対し、

わたしたちは容赦なき戦いを

繰り広げなくてはならない。

しかし、戦いの中で

敵に根源的な重要性を与えてはならない。

もちろん、わたしたちの人生は

彼らから攻撃されるためにあるのではないし、

彼らとの戦いを

自分たちの存在理由にしてはならない。

そして、戦うときは

彼らに道化の衣装を着せるか、もしくは、

彼ら自身の手で着るように

仕向けなくてはならない。

敵を倒したとしても、

究極の勝利が訪れるのは、

彼らがいかに理性に欠けているかだけでなく、

いかに情けないかを実証したときである。」

(pp.542-543。丸カッコ内は引用者の補足)

 

「偏見」に基づく言葉は

他者を煽動して暴力行為に至らせる

という認識は、重いですね。

 

この認識を前提にして

「偏見」との戦いを求めつつ

戦いが自己目的化することを

戒めているのが

引用箇所の真骨頂ではないでしょうか。

 

自己目的化を戒めるのは

自己目的化すると

「敵」と同様に

他者を煽動する結果を

招きかねないからだと思います。

 

それに「敵」とその「偏見」に

「根源的な重要性」や価値を

付与してしまうからでしょう。

 

まさに

「敵との戦いは重要だが、

敵そのものは重要ではない」(p.542)

のです。

 

 

もちろん

「戦い」にのめり込むと

自分の生活も破壊する結果をも

招くわけですしね。

 

それは「敵」の思う壺でも

あるわけです。

 

 

ちなみに

本書の原題として

前付けに記されている

Denial

「否定」という意味。

 

Denial という言葉は

否定論者とそれを否定することと

両義的に使われている気がします。

 

もっとも

これは映画に合わせて

改題されたタイトルで

もともとの原題は

History on Trial:

My Day in Court With a Holocaust Denier

(裁判にかけられる歴史:

 ホロコースト否定論者との法廷における日々)

だったようですね。

 

映画が公開されたとき

「否定と肯定」というのは

悪しき両論併記のあらわれではないか

というツイートも見受けられました。

 

たとえば

「裁かれる歴史」とかいう

邦題にしていたなら

書籍の方の原題にも近いし

裁くという行為や

裁きの対象となる歴史が

ダブル・ミーニングになっていて

良かったかも、とか思ったり。

 

映画の方の原題の

ニュアンスを出すなら

「否定と否定」と付けてみても

良かったかもしれません。

 

 

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