前回の記事の最後で
『愛国殺人』を読み終えると
ある種の感動に包まれた
というふうに書きましたが
今回はその感動の中身について
書いてみることにします。
ネタバレせずに書いて
うまく伝えられるものかどうか
微妙なのですが
おつきあいいただければ幸い。(^_^)
『愛国殺人』は
エルキュール・ポアロのかかりつけだった
歯科医の死によって始まります。
歯科医院が舞台となるミステリ
というのは意外と少なく
名探偵が歯医者にかかっている
という状況も
泡坂妻夫の「歯痛の思い出」
(『亜愛一郎の逃亡』収録)
くらいしか思い当たりません。
それはともかく
物語の最初の方では
誰が、罪もない
どこにでもいるような
歯科医を殺すのか
という動機の謎が
フィーチャーされています。
この
ありふれた一市民の死
という状況は
物語の最後にいたって
あるテーマを示唆することになります。
動機の謎は
江戸川乱歩のいう「大きなトリック」の
ひとつを構成する要素であるのですけど
物語が進むにつれて
それだけにとどまらない意味が
歯科医の死にこめられていきます。
トリックのパーツというだけでない
象徴的に意味が担わされていくのです。
歯医者の死をめぐって
ポアロがそれぞれ別の登場人物と
次のような会話を交わす場面が
描かれます。
「哀れな歯医者が一人死んだって
たいしたことじゃないじゃないか?」
エルキュール・ポアロはいった。
「あなたにとっては
たいしたことではないでしょうが、
私にはたいしたことなんです。
これが二人の間の相違なんです」(p.79)
「彼は人間でございますよ、マダム。
そして彼は寿命もこないのに死んだのです」
「あの男は重要な人間じゃありません」
ポアロは非常に静かな声でいったが
その声にはある決意があった。
「それはあなたが間違っています……」(p.127)
それぞれ
死んだ歯医者は重要な人間ではない
と言う相手に対して
ポアロは
ノンを突きつけているわけです。
物語の終盤で、ある青年に
歯科医殺しの嫌疑が
かけられるのですけど
その青年は
人間として上等とは言えないし
ポアロも実は彼のことを
好きにはなれない。
それでもポアロは
「正義」を曲げることはできません。
嫌っている相手でも
「正義」の名の下では
救われるべきだし
自分の好きな相手であっても
それが犯人であれば
「正義」の名の下では
裁きが下されなくてはならない。
だから青年のことを救おうとします。
そして最後にポアロは
犯人に対して
事件の渦中で死んだ3人の人間と
殺人の容疑で死刑になろうとしている
1人の人間についてふれ
「私にとっては
この四人の人々の生命も
あなたの生とまったく同じほどに
大切なものだったんのです」(p.214)
と言います。
そして、自分を逮捕させると
「全国民の安寧と幸福」が乱される
という犯人に対して
「私は国家のことなどに
従っているのではありません。
私のたずさわっているのは
自分の命を他人から奪われない、
という権利を持っている
個々の人間に関することです」(同)
と言い切るのでした。
まさかこんな台詞を
クリスティーの小説で
しかもポアロの口から聞かされるとは
思いもよりませんでした。
自分を国家に取って重要な
特権的な人間だと思い
自分に比べれば
平凡な一市民の命など
犠牲になってもしょうがない、と
思い込んでいる犯人のありようは
昨今の日本社会のある方面にも
顕著に見られる傾向のように思います。
そうした
「国家」を楯にとった個人の犯罪を
完膚なきまでに否定するのが
ポアロなのです。
こうしたポアロのありようは
己の職業倫理に従い
惚れた女でも
司直の手に渡す
サム・スペードもかくや
と思わせるようなところがあります。
なんて書くと
ハードボイルド・ファンの方々から
お叱りを受けるでしょうか。(^^ゞ
そして、そう考えると
物語の最初の方で言及される、
歯科医のページ・ボーイ(給仕)が
「みんな拳銃をバンバン撃つ」
「アメリカの探偵小説」(p.42)を
読んでいるということが
何やら意味深に感じられてきます。
1940年代に
(実際の執筆は1939年でしょう)
こういうリベラルな話を書いたクリスティーは
すごいなと素直に思います。
ただ、ルリタニアという
記号から判断するに
ポアロの理想もお伽噺
と示唆されているような
気がしないでもない。
ただ、こういう感覚は
『ポケットにライ麦を』(1953)でも
ミス・マープルを通して
描き込まれているような
気がしないでもなく
その意味では
クリスティーの思想と捉えても
いいのかもしれないと思ったり。
物語の最後では
どうやら犯人が罪を逃れそうな
可能性のあることが
示唆されています。
その最後の章で
ある人物に
今の心境を聞かれたポアロは
旧約聖書のサムエル記・第一から
次のようなフレーズを引用して
答えに代えています。
「汝エホバの言を棄てたるにより
エホバもまた汝を棄てて
王たらざらしめたまふ」(p.216)
「王たらざらしめたまふ」が
ちょっと分かりにくいですけど
手許にある新改訳の旧約聖書だと
「あなたが主のことばを退けたので
主もあなたを王位から退けた」
と訳されています。
現世の権力より
上位の権力を有する存在を
信仰する文化を持つ国のミステリらしい
という感じがしますけど
別にキリスト教国の人間でなくとも
ポアロのこの引用には
胸を突かれるものが
あるのではないでしょうか。
以下、備忘。
第3章・第8節に
「ラックストン夫人のように、
こまごまに切られているのを、
(略)発見するだろう」(p.88)
というジャップ主任警部の台詞が
出てきます。
特に訳註はありませんが
これは1935年に起きた
インド人医師バック・ラックストン
Dr. Buck Ruxton による
バラバラ殺人事件を踏まえています。
遺体(頭蓋骨)の写真と
被害者の肖像写真とを
二重写しにして
身許を確定するという方法で
知られている事件のようですね。
以前、紹介した
J・H・H・ゴーテ&ロビン・オーデル
『殺人紳士録』(1979)に
その重ね合わせの写真が
載っていますので
興味がおありの方は
そちらをご参照ください。
ちなみに
ポケミス版の『愛国殺人』ですが
後に初版本(?)を
古本で手に入れました。
(加島祥造訳、早川書房、1955.7.15)
裏にエンピツで
「100」と書いてありますから
100円だったんでしょう。( ̄▽ ̄)
解説の類は付いていませんが
裏表紙の作品紹介には
先の記事でも紹介した
江戸川乱歩のエッセイ
「クリスティーに脱帽」から
本書を評した部分を
そのまま引用して載せています。
ただ、マザー・グースについて
どこにも書いてないので
各章題の文句を見た
当時の読者は
さぞ戸惑ったことでしょうね。(^_^)