
(1946/清水裕子訳、論創社、2016.4.30)
エリザベス・フェラーズの作品は
以前こちらでも
『猿来たりなば』(1942)を
取り上げたことがあります。
そのフェラーズの
ノン・シリーズ作品が
今年に入って立て続けに
といっていいくらいのペースで
論創社から訳されました。
その内の1冊が今回取り上げる
『灯火(ともしび)が消える前に』です。
灯火管制下のロンドンで
学生時代の旧友たちが
妻が自殺して消沈している
劇作家の友人を励まそうと
ささやかなホーム・パーティーを
企画します。
そのパーティーが開かれた当日
フラットの上階に住む劇作家が
なかなか降りてこないと思っていたら
何者かに撲殺されていました。
たまたま
フラットに住む別の住人を尋ねてきた
アメリカ兵の若者が
被害者の部屋から逃げ出した女性を
目撃しており
その髪と服の色は
パーティーの参加者の一人と
一致しました。
それだけでなく
死体のそばに転がっていた
火かき棒からは
目撃された当の女性の指紋が
検出されます。
しかし
被疑者の女性は
階上には上がっていない
と断言するばかり。
検死法廷が開かれ
故殺の評決が下されるのですが
パーティーに参加していた
ただ一人の部外者
つまり学生時代からの付き合いがない
市民助言局勤務の女性は
評決に納得できず
独自に調べ始める
というお話です。
ちなみに
本書で「死因審問」と訳されているのは
おそらく原文では inquest でしょうから
上では検死法廷と書きましたが
違ってたらごめんなさい。
オビにでかでかとあるように
本作品は
H・R・F・キーティングの
『海外ミステリ名作100選
——ポオからP・D・ジェイムズまで』

(1987/長野きよみ訳、早川書房、1992.10.31)
の中で取り上げられており
単なるディティクティヴ・ストーリーではなく
ディテクティヴ・ノヴェルなのだ
というふうに褒められています。
ディティクティヴ・ストーリーではなく
ディティクティヴ・ノヴェルだという評言は
明らかにジュリアン・シモンズの
ミステリ史観を踏まえたものでしょう。
こういう褒め方って
日本の、いわゆる本格ファンには
あまりアピールしないんですけど
(だと思うんですけど)
だからといって
もし、いわゆる本格ファンが
本書を読まずに済ますとしたら
損しますよ、といいたくなるような
出来栄えでした。
187ページに
市民助言局勤務の女性である
探偵役のアリスが
次のように言う場面があります。
「犯罪、あるいは
どんな行動においても
もっとも肝心な部分は、
動機じゃないかしら。
どんなふうに行なわれたかとか、
どこでとか、いつとかじゃなくて、
なぜそれが行なわれたか。
怒りとか欲とか嫉妬に基づく話だと
思っていたのに、
そんな感情はなかったとわかったら、
そのときはすべてを
最初から考え直すべきだと思うのよ。
(略)
それは、裁判にかけられている
人間の実像の問題なのよ」
「どんなふうに」というのは
いわゆる how
「どこで」というのは where
「いつ」というのは when
「なぜ」というのが why で
ミステリ用語風にいいかえれば
ハウダニット howdunit から
ホワイダニット whydunit へ
ということになりましょうか。
本作品のミステリとしてのポイントは
このアリスの台詞にあると思いますし
戦後のミステリもおおむね
こうした方向にポイントを置いて
発展してきました。
ですから、先のように
キーティングがいいたくなる気持ちも
分からなくはないわけです。
ただ
本作品が凄いと思うのは
上に引用した台詞のあとに
ささやかながら
ハウダニット風の
推理のスクラップ・アンド・ビルドが
描かれていることでした。
いかにも
本格ファンを喜ばせそうな
戦時下ならではのトリックが
推理されたかと思うと
すぐさま否定されてしまうのです。
作品の狙いが
ホワイダニットだと思っていただけに
これにはびっくりさせられました。
そのあとに明かされる
真相のトリックは
イギリスのある女性作家が
1932年に発表した短編に
先行例があるので
ちょっと萎えるのも確かですけど
一人の女性像をしっかりと描き出し
なぜ「階上には上がっていない」と言ったのか
という謎を、きっちりと
説得的に解き明かしていくあたり
感服させられた次第です。
というか
ホワイダニットの重視という
戦後のミステリの方向性を
典型的に示しつつ
推理の面白さ
トリック解明の面白さを
ないがしろにしていないあたりに
感銘を受けたといいますか。
そこらへんが
本作品を
単なるディテクティヴ・ノヴェルに
終わらせていないところだと
思ったりするわけです。
これはおススメですね。(^_^)
