『赤毛の男の妻』(第3刷)
(1956/大久保康雄訳、創元推理文庫、
 1961.9.8/1972.10.27. 3刷)

小森収『本の窓から』という
この8月に論創社から出たばかりの
ミステリ評論集を読もうと思い
あとがきに眼を通していたら
「『赤毛の男の妻』については、
 過去何度か原稿を書いてみて、
 結末を伏せるかぎり
 充分に書けないことが分かったので、
 今回、このような形で
 決着をつけることにした」(p.372)
と書いてあったので
よい機会でもあり
読んでみることにした次第です。


上に掲げた写真は
2度目のカバーで
今、Amazon で検索すると
おそらくは初版のカバーと
1990年代に出た新装版のカバーを
確認することができます。

手許にあるのは
ずいぶん前に古本屋で見つけて
買っておいたもので
最終ページには「80」と
鉛筆で書かれた値段が残ってました。

ちなみに
刊行当時(1972年)の定価は
200円です。


フロント・ページの内容紹介には
「殺人を犯して
 妻とともにアメリカじゅうを逃げ回る
 脱獄囚、赤毛の男とその妻。
 そして、ふたりの逮捕を命じられた
 ニューヨーク十九管区の刑事。
 この追う者と追われる者の
 息づまる追跡戦と心理の角逐」
と書いてあります。

これだとなんだか
平凡なサスペンスもの
という印象が拭えず
それもあってか
買っておきながら
読むのは今回が初めてだったり。

殺人を犯すに至った経緯や
妻の立ち位置や
なぜ脱獄囚になったか、など
いろいろな事情が胚胎していて
それについては
未読の方もいるでしょうから
詳しくは書きませんが
実際に読んでみると
意外と読ませました。


単なる追っかけものではなく
追う側の刑事のアプローチがロジカルで
手がかりや臭跡を突き止めるあたりの
知的なサスペンスが
それなりに書けているのも
飽きさせないことに
与っていたかと思います。

また
同じくバリンジャーが書いた
『歯と爪』(1955)あたりに感じられる
バリンジャー特有の叙情性というか
ロマンティシズムみたいなものが
独得のムードを醸し出している気がします。

といっても
『歯と爪』を読んだのは中学生の頃で
こういう印象が妥当なのかどうか
保証のかぎりではありませんけど。

ただ、今回読んでみた
『赤毛の男の妻』には
コーネル・ウールリッチばりの
暗い叙情性のようなものを
なんとなく感じた次第です。


『赤毛の男の妻』が有名なのは
最後のページで
ある事実が明らかになるからなんですが
巻末に付いている植草甚一の解説では
それが明かされていて
ちょっと感心できません。

今回初読のはずの自分が
そのネタを知っていたのは
この解説のためかと
改めて気づいた次第です。

最近の紹介では
このネタは伏せることが
当り前になっているようです。

伏せること自体は正解だと思いますけど
そのせいで、なんだか
ワン・アイデア・ストーリーのような印象を
与えてしまっているような気が
しないではありません。

そのネタを知っちゃうと
「読んでもしょうがないか」と
思わせてしまう
とでもいいましょうか。

そのネタの直ぐ前の
追跡劇の結末の付け方も
なかなかいいんですけどね。


それと
このネタは有名ではありますけど
狙いが今ひとつ分かりにくい。

このネタを使うことで
ミステリ的に優れたものになっている
というより
小説的に優れたものに
なっているんだと思いますが
ではなぜ小説的に優れたものになっているのか
なぜ最後まで伏せられているのか
今ひとつ判然としません。

少なくとも、読み終ってすぐ
「なるほど」と思わせるような感銘は
受けませんでした。

そこらへんについて
小森収が上手く解説しているのかどうか。

『本の窓から』を読むのが
ちょっと楽しみになってきました。


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