『サンドリーヌ裁判』
(2013/村松潔訳、ハヤカワ・ミステリ、2015.1.15)

アメリカの地方都市で
大学教授夫人であり
自らも史学教授であるサンドリーヌが
不自然な死を迎えるという事件が起きます。

その夫で
同じ大学の英文学教授である
サミュエルは
自殺だと届け出るのですが
その態度に不審なところがあり
状況証拠から
夫による殺人ではないか
という疑惑が浮上し
訴追されてしまいます。

その裁判の始まりから
結審するまでを
起訴された夫の視点から
生前の妻との関係や
訴追に至るまでの出来事の
回想をまじえて
描かれていく作品です。


日本でいうところの
いわゆる記憶シリーズ以降の
クック作品の特徴としてあげられるのは
すべてが終わった時点から
語り手の回想によって
物語が進んでいくものがほとんどだ
という点でしょうか。

回想している時点で
真相が分かっている場合もあるし
回想していくうちに
真相に気づくという場合もあります。

いずれにせよ
回想される対象となる事件の
特異点というか
このときこうしていれば
あるいは
このとき気づいていれば
悲劇は起きなかった、という場面が
クローズアップされる瞬間
というのがあります。

そういう瞬間を演出することが
クックの作品に
運命悲劇のような厳粛な雰囲気を
与えているように思います。


『サンドリーヌ裁判』の場合は
裁判の最後の最後で
サンドリーヌが何を考えていたのか
特に、結婚前に行った旅行先
フランスのアルビという町に
どういう意味があったか
ということが分かる瞬間があります。

おそらくそこが
本作品の特異点だと思いますが
これまでの作品、例えば
『夏草の記憶』(1995)や
『緋色の記憶』(1996)などに比べると
ややインパクトに欠ける気がしました。


そうはいっても
本書のキモはそこなのでして
読後、ネットで
本書の特異点にかかわる
キー・モチーフについて
検索してみると
そのキー・モチーフについて
あからさまに説明している感想が
何件かヒットしました。

いわゆる謎解きミステリではありませんし
ものすごいサプライズ・エンディングの作品
というわけでもありませんが
これはちょっとびっくりでした。

この記事を見ただけで
まだ検索していないという方は幸いです。

興味を持たれた方もいるかもしれませんが
まっさらな状態で読みたいのであれば
くれぐれもネットで検索されませんように。


訴追された夫の大学教授サミュエルは
いわゆる燃えつき症候群にかかっている
インテリのイヤな奴
という描かれ方というか
設定なのですが
出来の悪い学生を教えていると
燃えつきてしまう気持ちは
よく分かるような気もします。

その意味では
妻のサンドリーヌは
理想的に描かれすぎている気もしますし
サミュエルとサンドリーヌの出会いなんて
お伽噺のようなところもあります。

そう感じてしまう自分がすでに
燃えつき症候群に
陥っているのかもしれませんけどね。


お伽噺といえば
エピローグも
クックには珍しく甘々というか
メロドラマチックな感じでした。

もっとも
そのエピローグにこそ
クックの
人間に対する期待と信頼が
こめられているのでしょう。


オビには
「結婚は
 人生の墓場ではなく
 人生の処刑場かもしれない……」と
すごい惹句が書かれてますが
本書は、基本的に
「やさしさ」と
その再生ついての物語です。

文科系学問に対する
昨今の文科省の姿勢を鑑みると
本書のモチーフはいっそう
切実さを増しているような気がします。

こういうものを書ける作家がいるから
アメリカというのは
たいした国なのだと思いますね。


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