『横溝正史の世界』という
横溝のエッセイや
対談などを収めた本に収録されている
大西赤人との対談
「探偵小説の阿修羅として」を
今、読むと
あまりにもアクチュアルで
びっくりした
という前回の感想の続きです。

(徳間書店、1976.3.10)
戦時中の話の流れで
特攻の話題が出てきた際に
以下のようなやりとりがありました。
大西 特攻というのは、ぼくにも、戦争の中でいちばん
のショック……ショックというとあれだけど、 ほ ん と
に、なんともいえないような気になるんですね。戦争に
突入していくことには、時の勢いがやっぱりあるでしょ
うが、ドイツの考えた特攻兵器でさえ、命中直前まで人
間が乗っていて、最後には飛び出せるような仕組みだっ
た。ところが日本のは、絶対ダメ、助からない。百分の
ゼロでしょ。 (略) ぼくだった
ら、特攻に行けなんていわれたら、行きますといってお
いて、どっか途中の島に不時着したくなっちゃうんじゃ
ないかなと思う。もちろん、そういう特別の雰囲気の中
にいた場合には、とてもそんな冗談半分な感じではない
から、精神的に追いつめられて行くかもしれないけれど
も。しかし、心情として、理解できないですね。
横溝 つまり、そういう神がかり的な心境に若者は醸成
されるわけね。それを醸成しようとムキになるのはイヤ
だわね。
「ムキになるのはイヤだわね」
という発言が
さらりと出てきて
ハッとさせられます。
あと、印象的だったのは
以下のやりとり。
赤西 そうして、日本の場合は、生命が助かると、非常
に悪いという風潮がありましたね。死なないと勇気がな
いとか、捕虜になってはいけない、なんていうのはあま
りにひどいですね。
横溝 ところがね、ぼくが中学時代に習った漢文では、
「戦いに敗れて捕虜になる。これ、なんの恥ならんや」
って習ったんですね。それが、いつのまにやら、アッツ
島玉砕、玉砕でやってるでしょう。ああいう軍人精神が
あるの、ぼくは知らなかったんです。玉砕って新聞で見
ると、とってもいやだったなあ。なぜ、こんな玉砕しな
くちゃいけないんだろう、われわれ銃後の人間は助かっ
ているのに、なぜ、降伏しちゃいけないんだろう、と思
ってたんです。あとできいたら、犠牲心、軍人精神訓と
かなんとかいうのがあったらしいですね。
「われわれ銃後の人間は助かっているのに、
なぜ、降伏しちゃいけないんだろう」
という疑問を抱いたというのが
この発言の真髄かと思います。
先の「ムキになるのはイヤだわね」と併せて
こういう普通の発想、
生活人の発想といってもいいですけど
そういうのを失うと
雪崩を打って右傾化していくのでしょう。
もっとも最近の生活人は
われわれの税金で戦っているんだから
とか何とか言って
玉砕するのが当然だ
と思ってしまうようなところが
ありそうですけどね。
洒落にもならんがな。( ̄_ ̄ i)
玉砕についての話題の最後に
横溝はこんなことを言ってます。
「結局ね、前途のある青年たちを戦線に送り だ す よう
な、そんな時代にしてはだめなんですよね。ぼくは若者
を信頼しているから、なおのことそう思いますよ。」
横溝の若い世代に対する
暖かいまなざしが感じられて
ちょっと感銘を受けました。
それにしても
個人的な印象にしか過ぎませんが
「前途のある青年たち」という言葉は
最近あまり聞かないような気がします。
なぜなんでしょうね。
ところでこの対談、
単行本に収録された際は
「探偵小説の阿修羅として」
なんてタイトルになってますが
初出である
『週刊ポスト』1976年1月1日号に
載ったときは
「空想力が切り裂いた恐怖時代の予兆」
というタイトルだったようです。
ようです、というのは
単行本に載った座談の最後に
そう書いてあるからで
現物に当たったわけではありません。
なぜそういうタイトルだったかというと
おそらくは以下のやりとりなどが
踏まえられているんじゃないでしょうか。
大西 いまの世相は、昭和十年代初めのころとよく似て
いるといわれますでしょ。実感として、どうですか。
横溝 ぼくは似ているような気がするね。だから、こわ
くて仕方がない。なにがいちばんこわいっていうと、生
命の危険なんかよりも、書くことについての圧迫、それ
がいちばんこわいでしょうね。また、そんな時代がきつ
つあるんじゃないかっていう気がします。
(略) こういうと、みなさん恐れるけど、
わたしは経験者でしょ。なんとなく、このままじゃすま
ないんじゃないか、それはまだ十年先だか、十五年先だ
か、わかりませんがね。
これは1976年の時点での話ですが
横溝が生きていて
今の国会の
安保法制をめぐるやりとりや
一部のメディアの
権力迎合のありさまを見たら
どういう感想を持っただろうか、と
考えずにはいられませんでした。
考えずにはいられない
と書きましたけど
考えずにはいられなくなるような時代が
自分が生きている間に来るとは
思いもよりませんでした。
この対談の最後で横溝が
自分の書くものは
「一種の遊戯文学」だけれど
「まあ、今の希望のない世界で、
若い人たちにとって、
つかの間の憩い、安らぎにでもなれば、
本懐ですね」
と言っているのも印象的です。
実際の対談を編集しているのでしょうから
これが当日の最後の言葉とは限りませんが
自分の書くものが現実と関わらない
遊戯文学、逃避文学だと
はっきりと見据えているのが
やっぱり、すごいと思うわけです。
こういう自己認識を持つ背景には
先に引いた、
若者を「神がかり的な心境に」
「醸成しようとムキになるのは
イヤだわね」
という感覚とも通じるものが
あるような気がします。
横溝の持っていた
若い人たちへの
暖かいまなざしに気づけただけでも
今回、たまたまですが
目を通すことになって
よかったなあと思いますね。

横溝のエッセイや
対談などを収めた本に収録されている
大西赤人との対談
「探偵小説の阿修羅として」を
今、読むと
あまりにもアクチュアルで
びっくりした
という前回の感想の続きです。

(徳間書店、1976.3.10)
戦時中の話の流れで
特攻の話題が出てきた際に
以下のようなやりとりがありました。
大西 特攻というのは、ぼくにも、戦争の中でいちばん
のショック……ショックというとあれだけど、 ほ ん と
に、なんともいえないような気になるんですね。戦争に
突入していくことには、時の勢いがやっぱりあるでしょ
うが、ドイツの考えた特攻兵器でさえ、命中直前まで人
間が乗っていて、最後には飛び出せるような仕組みだっ
た。ところが日本のは、絶対ダメ、助からない。百分の
ゼロでしょ。 (略) ぼくだった
ら、特攻に行けなんていわれたら、行きますといってお
いて、どっか途中の島に不時着したくなっちゃうんじゃ
ないかなと思う。もちろん、そういう特別の雰囲気の中
にいた場合には、とてもそんな冗談半分な感じではない
から、精神的に追いつめられて行くかもしれないけれど
も。しかし、心情として、理解できないですね。
横溝 つまり、そういう神がかり的な心境に若者は醸成
されるわけね。それを醸成しようとムキになるのはイヤ
だわね。
「ムキになるのはイヤだわね」
という発言が
さらりと出てきて
ハッとさせられます。
あと、印象的だったのは
以下のやりとり。
赤西 そうして、日本の場合は、生命が助かると、非常
に悪いという風潮がありましたね。死なないと勇気がな
いとか、捕虜になってはいけない、なんていうのはあま
りにひどいですね。
横溝 ところがね、ぼくが中学時代に習った漢文では、
「戦いに敗れて捕虜になる。これ、なんの恥ならんや」
って習ったんですね。それが、いつのまにやら、アッツ
島玉砕、玉砕でやってるでしょう。ああいう軍人精神が
あるの、ぼくは知らなかったんです。玉砕って新聞で見
ると、とってもいやだったなあ。なぜ、こんな玉砕しな
くちゃいけないんだろう、われわれ銃後の人間は助かっ
ているのに、なぜ、降伏しちゃいけないんだろう、と思
ってたんです。あとできいたら、犠牲心、軍人精神訓と
かなんとかいうのがあったらしいですね。
「われわれ銃後の人間は助かっているのに、
なぜ、降伏しちゃいけないんだろう」
という疑問を抱いたというのが
この発言の真髄かと思います。
先の「ムキになるのはイヤだわね」と併せて
こういう普通の発想、
生活人の発想といってもいいですけど
そういうのを失うと
雪崩を打って右傾化していくのでしょう。
もっとも最近の生活人は
われわれの税金で戦っているんだから
とか何とか言って
玉砕するのが当然だ
と思ってしまうようなところが
ありそうですけどね。
洒落にもならんがな。( ̄_ ̄ i)
玉砕についての話題の最後に
横溝はこんなことを言ってます。
「結局ね、前途のある青年たちを戦線に送り だ す よう
な、そんな時代にしてはだめなんですよね。ぼくは若者
を信頼しているから、なおのことそう思いますよ。」
横溝の若い世代に対する
暖かいまなざしが感じられて
ちょっと感銘を受けました。
それにしても
個人的な印象にしか過ぎませんが
「前途のある青年たち」という言葉は
最近あまり聞かないような気がします。
なぜなんでしょうね。
ところでこの対談、
単行本に収録された際は
「探偵小説の阿修羅として」
なんてタイトルになってますが
初出である
『週刊ポスト』1976年1月1日号に
載ったときは
「空想力が切り裂いた恐怖時代の予兆」
というタイトルだったようです。
ようです、というのは
単行本に載った座談の最後に
そう書いてあるからで
現物に当たったわけではありません。
なぜそういうタイトルだったかというと
おそらくは以下のやりとりなどが
踏まえられているんじゃないでしょうか。
大西 いまの世相は、昭和十年代初めのころとよく似て
いるといわれますでしょ。実感として、どうですか。
横溝 ぼくは似ているような気がするね。だから、こわ
くて仕方がない。なにがいちばんこわいっていうと、生
命の危険なんかよりも、書くことについての圧迫、それ
がいちばんこわいでしょうね。また、そんな時代がきつ
つあるんじゃないかっていう気がします。
(略) こういうと、みなさん恐れるけど、
わたしは経験者でしょ。なんとなく、このままじゃすま
ないんじゃないか、それはまだ十年先だか、十五年先だ
か、わかりませんがね。
これは1976年の時点での話ですが
横溝が生きていて
今の国会の
安保法制をめぐるやりとりや
一部のメディアの
権力迎合のありさまを見たら
どういう感想を持っただろうか、と
考えずにはいられませんでした。
考えずにはいられない
と書きましたけど
考えずにはいられなくなるような時代が
自分が生きている間に来るとは
思いもよりませんでした。
この対談の最後で横溝が
自分の書くものは
「一種の遊戯文学」だけれど
「まあ、今の希望のない世界で、
若い人たちにとって、
つかの間の憩い、安らぎにでもなれば、
本懐ですね」
と言っているのも印象的です。
実際の対談を編集しているのでしょうから
これが当日の最後の言葉とは限りませんが
自分の書くものが現実と関わらない
遊戯文学、逃避文学だと
はっきりと見据えているのが
やっぱり、すごいと思うわけです。
こういう自己認識を持つ背景には
先に引いた、
若者を「神がかり的な心境に」
「醸成しようとムキになるのは
イヤだわね」
という感覚とも通じるものが
あるような気がします。
横溝の持っていた
若い人たちへの
暖かいまなざしに気づけただけでも
今回、たまたまですが
目を通すことになって
よかったなあと思いますね。
