
(新潮社、2015年3月30日発行)
北村薫のデビュー作『空飛ぶ馬』で
語り手を務めた本好きの女子大生
「私」のシリーズ、
あるいは彼女の謎解きの相談役である
落語家・春桜亭円紫からとって
円紫さんと私シリーズともいわれる連作集、
久しぶりの、というか
待望の刊行です。
シリーズ最後の作品だった
『朝霧』の刊行が1995年ですから
実に20年ぶりの復活
ということになります。
その間に
「私」は結婚して子供ができ
それなりに年を重ねましたが
出版社の編集者として
元気に働いている様子。
雑誌に掲載された「花火」「女生徒」に
書下しの「太宰治の辞書」を併せて
全3作収録。
「花火」では芥川龍之介の「舞踏会」、
「女生徒」では太宰治の同題作品が
中心的な話題となります。
全体的に、小説というよりは
エッセイないし評論
という感じの作りです。
話題の中心となるテキストが引用され
それをめぐる
評論や解説といった類いの文章が
引用されているため
余計そんな感じを受けます。
ですから
バリバリの〈日常の謎〉もの
……というのも変ですが
なんというかなあ
ロジックによって謎が鮮やかに解かれる
というようなものを期待すると
ちょっと肩すかしを食らいます。
ただし、本好きには
ひとつの作品がきかっけとなって
本から本へと連想がつながっていき
トリビアルな知識に触れ
何となく腑に落ちる納得にいたる
という語り口に身を委ねるのは
何ごとにも代え難い快楽ではないか
と思われます。
では、本作品集は
ミステリではないかというと
そこはまた微妙なところですが
自分的としては
「太宰治の辞書」に描かれる
円紫さんと「私」の
以下のようなやりとりを読むと
これもまたミステリだなあと
思ったりしますけどね。
「《謎》というのは、
質問一、質問二といったように、
問題用紙に書かれているわけでは
ありませんね。——先生が話した後、
《では、何か質問はありませんか?》
という。皆な、しーん。
分かってるからじゃありませんよね。
それを出せるほど、
内容が自分のものに
なっていないからですよね」
円紫さんは、やさしく私を見つめ、
「そうですね」
質問するのは難しい。
何が謎か、は多くの場合分からない。
聞けなくてすみません——となりがちだ。
(p.150)
謎は与えられるものではなく
対象に没入した時に
没入した主体によって見出されるものだ
ということになりましょうか。
「没入した主体」なんて
言い回しが堅苦しい点は、ご容赦を。
ところで「花火」には
語り手の「私」による
次のような述懐が出てきます。
小説は
書かれることによっては完結しない。
読まれることによって完成するのだ。
ひとつの小説は、
決して《ひとつ》ではない。(p.56)
この部分を読んで、おやっと思いました。
最近、似たようなことばを読んだなあ
という気がして
しばらく考えてみたら
先日こちらのブログでも紹介した
水村美苗の『日本語が亡びるとき』だと
思い至りました。
文学とは、
たんにそこにあるモノではない。
それは、読むという行為を通じてのみ、
毎回、そこに
新たに存在するものである。
日本文学という〈国民文学〉の豊かさは、
日本語の〈図書館〉にどれぐらい
〈読まれるべき言葉〉が入っているか
ではない。
それらの〈読まれるべき言葉〉を
ふつうの日本人が
どれぐらい読むかに
かかっているのである。
(ちくま文庫版、pp.402-403)
ニュアンスというか
主旨は微妙に異なるのでしょうが
小説=文学が
読まれることで完成する=存在する
というあたりは
通底するものが感じられます。
こういうのにぶつかるのも
シンクロニシティのひとつだと
思ったりするのですが。
『太宰治の辞書』を読んでいて
一箇所、気になる表記がありました。
173ページに
昭和初期に刊行された
辞書から引用されている個所が
あるのですが
そこには
欧羅巴デ行ワレタ家屋装飾ノ様式
と書かれていました。
「行ワレタ」ではなく
「行ハレタ」が
正しい仮名遣いではないでしょうか。
小説だからいいじゃん
というわけにはいかないのです、
他の、戦前のテキストは
ちゃんと旧仮名遣いで
引用されているのですから。
引用元の辞書に誤植があるのか
(そういう可能性も、ないわけではない)
本書における、うっかりミスなのか。
アラ捜しみたいで恐縮ですが
こういうのって気になる性分なもので。
