『増補 日本語が亡びるとき』
(ちくま文庫、2015.4.10)

副題「英語の世紀の中で」


原著は2008年10月に刊行されました。

出版当時、話題になったようですが
なぜか自分のアンテナに引っ掛からず
当時の読書リストを見直してみても
たまに内田樹や仲正昌樹の本を
読んでいるくらいで
基本的にミステリばっかり読んでます。

いろいろと事情があって
仕方なかったんですが
ちょっと情けない。(´・ω・`)


日本語をめぐる本というのは
何回かブームになっていて
自分も、大野晋や丸谷才一、
本書中にも引かれている
福田恆存の本なんかを
読んだりしています。

ただ、本書が
これまで読んできた本と違うのは、
違う印象を受けるのは
インターネットが当たり前となり
グローバル化が進んで
日本語を取り巻く環境が
福田や丸谷の時代とは
大きく変わってきていることを
前提として書かれているからでしょう。

そして、その大きな変化を自分も
実感として意識できるからでしょう。

さらには、日本政府のグローバル戦略や
それに基づく教育行政の方針が
水村が憂いているような方向に
進んでいることが
強く実感されるからでしょう。


本書を読むと
日本の行政が
明治政府の時代から
そして、戦後の文部省の時代から
日本語について
まったく何にも考えてこなかったことが
よく分かります。

そして、多くの日本人自身も
日本語について
何も考えていないこと
何も考えなくても大丈夫だと
思ってきたことが
よく分かります。


日本の歴史において何度か
日本語が失われそうになった
状況があったことが
記述されていて
読んでいてスリリングでした。

また、いわゆる西洋化によって
実際に母語(現地語)を失った
国家があることを知り
日本語が残っていることは
本当に奇跡的なことなのだと
感じ入りました。


Twitter の方でも書きましたが
翻訳ミステリの愛読者としては
pp.83-84 に書かれていた
アガサ・クリスティーが創造した
名探偵ポアロの英語表現をめぐる記述に
びっくりでした。

ポアロはベルギー人で
たまにフランス語を会話に交える
ということは
よくいわれることなのですが
モナミ(わが友)とか
ウイ(イエス)を
混ぜるくらいだと思ってました。

クリスティーは
フランスで
音楽の勉強をしていたことも
あるのですが
それでも、そんなふうに
片言を混ぜるくらいなのね
と、正直なめてました。

ところが本書を読んで
もっと文法的なレベルで
変な英語を使っていることを知り
汗顔の至りでした。

本書にあるような解説は
こちらの勉強不足かもしれませんが
初めて読みました。

翻訳でも分かるように訳されていれば
気づいていたでしょうが
これは翻訳不可能だろうなあ。


これが翻訳ミステリ・ファンの間で
話題になってたら
初版が出たとき読んでたかもしれない。

けど、読んでないということは
話題にならなかったか
話題になってたのに見逃したか。f^_^;


ただ、初版が出た当時読んでも
日本語は亡びるという主張が
素直に頭に入ってきたかどうかは
分かりません。

むしろ
文科省のやり口に疑問を抱くような
昨今の情勢だからこそ
息をもつかせず
読ませたのかもしれません。


本と出会うのは偶然ですが
出会うべき本は
出会うべき時に出会う
ということを
改めて思ったことでした。

これは広く読まれてほしい名著です。


ただ、文庫版の増補部分で
森鴎外の『高瀬舟』が
『高瀬川』となっている(p.443)のは
本の内容から考えて
いかがなものでしょうか。

誤植のない本はないとはいえ
筑摩書房の本にしては
信じられないくらいの誤植です。


個人的なレベルで
面白く感じたのは
先日、たまたま古本屋で買って
読み終えたばかりの
(これも今回が初読 f^_^; )
丸谷才一『闊歩する漱石』

『闊歩する漱石』
(講談社、2000.7.28)

に続いて
漱石の『三四郎』が
引用されていたこと。

しかも同じ個所。

昨今の社会情勢を鑑みるに
このシンクロニシティにはびっくり。

それに、これまで
さほど意識してなかったけど
『三四郎』って
何げにすごい小説だったんですね。


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