前の記事で紹介した
新潮文庫版『奇跡のお茶事件』

の訳者あとがきで
黒沼健が以下のように書いています。
英国人は大体に於て随筆がうまい。
レスリー・チャータリスが
随筆家であるということは聞かないが、
彼の文章にはその味が多分に滲み出ている。
若い層の読者には
或は煩わしいところかも知れないが、
訳者のような年齢のものには
ここにイギリス物の滋味をこの上なく感ずる。
更にこれは国民性の然[しか]らしむるところ
かも知れないが、
聖者[セント]の作者は機智とユーモアを
いたるところで仄めかす。
これはアメリカ物に見る感傷と
面白い対照をなすところであろう。
(この傾向はドロシイ・セイヤーズ、
マイケル・イネスにも著しい)(p.243)
これはなかなか含蓄のある解説で
「奇跡のお茶事件」に見られる
セイントの子供っぽい茶目っ気や
登場人物の行動を説明する地の文の
ある意味まどろっこしい書き方などに接すると
なるほどと頷けるものでした。
セイントがティール警部に返す
偽の「奇跡のお茶」をめぐる
シークエンスなどは
黒沼健のいう
「機智とユーモア」を
よく感じさせるエピソードだと思います。
セイントの子供っぽさは
併録の「ホグスボサム事件」にも
よく出ています。
国民公徳心振興会の会長
エビニーザ・ホグスボサムが気に入らず
いたずらを仕掛けようと(?)
セイントはその屋敷に向かう。
そこで何者かが二人組のならず者に
拷問を受けている場面に出くわす
という出だしのお話です。
実はそこはホグズボサム邸ではなく
違った屋敷であったことが
後に分かるのですが
そのまま銀行強盗を巡る
仲間割れ事件に話が発展し
最終的には強盗の上前をはねるわけです。
この物語、最後の最後で
再びホグズボサム邸を舞台として
物語の当初にセイントが考えていたことも
ちゃっかり実現してしまうという展開で
これなんかも作者チャータリスの
「機智とユーモア」を
よく示している気がしました。
「機智とユーモア」というと
お上品な感じがしますが
要するにドタバタ・コメディというか
スラップッスティックな要素が
物語に盛り込まれているわけで
『奇跡のお茶事件』収録の二編を読むと
セイントものの印象が
ちょっと改まります。
「ホグズボサム事件」の原題は
The Affair at Hogsbotham で
邦題は直訳なのですが
(正確には「ホグズボサム邸事件」かな?)
そういうタイトルなのに
ホグズボサムは一度も顔を見せない。
このタイトルは要するに
小説で描かれたような事件が起きあとの
スキャンダル新聞かなにかの
見出しを意識して付けられたものと思しく
そういう趣向は
なかなか洒落ていると思いました。
以前、こちらで取り上げた
「セイントと謎の故買人」(1934)とか
「セイント闇に溺れる」(1947)では
『奇跡のお茶事件』に見られるようなユーモアが
文体からも趣向からも
影をひそめているような気がします。
セイントの子供っぽさがなくなったというか。
「セイント闇に溺れる」は
ゴーストライトですからともかく
「奇跡のお茶事件」以前に発表された
「セイントと謎の故買人」が
ギャグの点でやや劣る感じがされるのは
今思うと、ちょっと意外かも。
なお『奇跡のお茶事件』には
「セイントと謎の故買人」に登場していた
セイントの助手である
パトリシア・ホームと
ホッピイ・ユニアッツが
登場しています。
このうち、ホッピイは
「ホグズボサム事件」のみの登場ですが
ギャグ・メーカーとして
なかなかおいしい役回りを演じていました。
「ホグズボサム事件」は初出誌不詳ですが
「奇跡のお茶事件」と同じく
Follow the Saint(1939)に収められました。
『奇跡のお茶事件』の親本である
日本出版協同から出版された
『聖者対警視庁』(1953)に訳されたものが
本邦初訳となります。

新潮文庫版『奇跡のお茶事件』

の訳者あとがきで
黒沼健が以下のように書いています。
英国人は大体に於て随筆がうまい。
レスリー・チャータリスが
随筆家であるということは聞かないが、
彼の文章にはその味が多分に滲み出ている。
若い層の読者には
或は煩わしいところかも知れないが、
訳者のような年齢のものには
ここにイギリス物の滋味をこの上なく感ずる。
更にこれは国民性の然[しか]らしむるところ
かも知れないが、
聖者[セント]の作者は機智とユーモアを
いたるところで仄めかす。
これはアメリカ物に見る感傷と
面白い対照をなすところであろう。
(この傾向はドロシイ・セイヤーズ、
マイケル・イネスにも著しい)(p.243)
これはなかなか含蓄のある解説で
「奇跡のお茶事件」に見られる
セイントの子供っぽい茶目っ気や
登場人物の行動を説明する地の文の
ある意味まどろっこしい書き方などに接すると
なるほどと頷けるものでした。
セイントがティール警部に返す
偽の「奇跡のお茶」をめぐる
シークエンスなどは
黒沼健のいう
「機智とユーモア」を
よく感じさせるエピソードだと思います。
セイントの子供っぽさは
併録の「ホグスボサム事件」にも
よく出ています。
国民公徳心振興会の会長
エビニーザ・ホグスボサムが気に入らず
いたずらを仕掛けようと(?)
セイントはその屋敷に向かう。
そこで何者かが二人組のならず者に
拷問を受けている場面に出くわす
という出だしのお話です。
実はそこはホグズボサム邸ではなく
違った屋敷であったことが
後に分かるのですが
そのまま銀行強盗を巡る
仲間割れ事件に話が発展し
最終的には強盗の上前をはねるわけです。
この物語、最後の最後で
再びホグズボサム邸を舞台として
物語の当初にセイントが考えていたことも
ちゃっかり実現してしまうという展開で
これなんかも作者チャータリスの
「機智とユーモア」を
よく示している気がしました。
「機智とユーモア」というと
お上品な感じがしますが
要するにドタバタ・コメディというか
スラップッスティックな要素が
物語に盛り込まれているわけで
『奇跡のお茶事件』収録の二編を読むと
セイントものの印象が
ちょっと改まります。
「ホグズボサム事件」の原題は
The Affair at Hogsbotham で
邦題は直訳なのですが
(正確には「ホグズボサム邸事件」かな?)
そういうタイトルなのに
ホグズボサムは一度も顔を見せない。
このタイトルは要するに
小説で描かれたような事件が起きあとの
スキャンダル新聞かなにかの
見出しを意識して付けられたものと思しく
そういう趣向は
なかなか洒落ていると思いました。
以前、こちらで取り上げた
「セイントと謎の故買人」(1934)とか
「セイント闇に溺れる」(1947)では
『奇跡のお茶事件』に見られるようなユーモアが
文体からも趣向からも
影をひそめているような気がします。
セイントの子供っぽさがなくなったというか。
「セイント闇に溺れる」は
ゴーストライトですからともかく
「奇跡のお茶事件」以前に発表された
「セイントと謎の故買人」が
ギャグの点でやや劣る感じがされるのは
今思うと、ちょっと意外かも。
なお『奇跡のお茶事件』には
「セイントと謎の故買人」に登場していた
セイントの助手である
パトリシア・ホームと
ホッピイ・ユニアッツが
登場しています。
このうち、ホッピイは
「ホグズボサム事件」のみの登場ですが
ギャグ・メーカーとして
なかなかおいしい役回りを演じていました。
「ホグズボサム事件」は初出誌不詳ですが
「奇跡のお茶事件」と同じく
Follow the Saint(1939)に収められました。
『奇跡のお茶事件』の親本である
日本出版協同から出版された
『聖者対警視庁』(1953)に訳されたものが
本邦初訳となります。
