
(東京創元社、2013年12月20日発行)
副題「現実から切り離された文学の諸問題」
東浩紀の本は
講談社現代新書の2著を中心に
何冊か読んでます。
本書については、基本的に
新刊として出たとき店頭で見て
法月綸太郎論が収録されているので
購いました。
それを今ごろ読んでいるというのは
まあ、措いといて。f^_^;
新井素子、法月綸太郎、押井守、小松左京ら
四人の小説家・映像作家の作品を
「作品がその虚構としての完成から
どうしようもなくずれていってしまい、
いつのまにか現実の痕跡を
招き入れてしまう、
そのような力学が働いて」いるテキスト(p.6)
として捉え
「想像力と現実、虚構と現実、文学と社会が
切り離された時代」(p.4)において
「それでも想像力と現実を、
あるいは文学と社会を、
それぞれの方法で再縫合しようと
試みてしまっている」(p.5)ありようを
読み解こうとした本です。
(原文のゴチック強調は省略。以下同じ)
と、これは、本書が刊行された際に
書き下ろされた序文に
書かれていることを
引いてみたものですけどね。
本文自体は
『ミステリーズ!』という
東京創元社から出ている
隔月刊の雑誌に
2007年から2010年にかけて
連載されました。
その本文の中の言葉を引けば、本書は
「セカイ系の困難、つまり
『社会が描けない』
『社会を描く気になれない』
『社会を描かなくてもいい』という」
「いまでは日本文化全体に拡がっている」
「問題」(p.18)について
4人の創作家の作品を通して論じ
「創作はなにを根拠にするべきか」(p.166)
を示してみようとした本
ということになりましょうか。
「社会の存在しないところで、
いかに小説を書くか」(p.73)
という問いを立てて、答えようとした本
といってもいいかもしれません。
もっとも読後の印象は
〈私たちは何を根拠に
現代を生きるべきか〉を
示してみようとした本
というものでした。
それは押井守論の冒頭で
新井素子論と法月綸太郎論をまとめた際
「もしきみが
セカイ系の困難に直面したのなら」
何々せよ、というのが
それぞれの作家の答だと
書いているのを
目にしているからでしょう(p.88)。
法月綸太郎論以外では
押井守論を
本書でも中心的に論じられている
映画『うる星やつら2
ビューティフル・ドリーマー』が
好きな映画ということもあって
興味深く読みました。
「ループの二重焦点化」(p.107)
という切り口は面白く
小松左京論でも
「二種類の母性」(p.150)に言及し
それまで物語世界の中心と思われていた
主体ないし視点人物をズラすことで
新しい作品解釈が生まれてくるあたりは
感心させられました。
法月綸太郎論でも
「分身との共依存」(p.75)が
指摘されており
作中人物の法月綸太郎の
ガールフレンドに注目して
見えてくるものがあるあたりが
面白かったです。
新井素子論については
まだ上記のような傾向は見られず
普通の(?)文芸評論という感じですが
作中人物としての新井素子と
作者である新井素子とが登場する
テキストを取り上げているので
法月綸太郎論と
ゆる~くつながっているようにも見えたり。
その新井素子論での考察は
最後の小松左京論で関係づけられていくので
本書全体がループを成しているともいえそうで
論じる主体が論じる対象に似てくるのか
論じる対象に合わせたのか
よく分かりませんが
ループ系の作品を読んだ時のような
奇妙な感覚にとらわれたことでした。
ダブルというモチーフや
主要人物をズラすということが
切り口や手法として共通していますが
これが
連載原稿を改稿して本にする時に
強調された結果ではなく
そもそもの連載時に
すでにあったスタイルだとしたら
すごいなあと思う次第です。
「日本で文学を、ひいては文化一般を
語ることの困難と限界について、
ぼくなりの考えを示したつもり」(p.7)
と序文で書かれている本に対して
ここで書いてきたような感想や
直前に書いたような感心の仕方が
妥当かどうか
ちょっと悩ましいところです。
ただ、読みと解釈の快楽を
味わわせてくれたことは間違いなく
自分にとって文芸評論というのは
そういう快楽を味わわせてくれる芸
という感じのものなので
その意味では、まあ、いいかあと
思ってます。
ここらへん
いわゆるかつての文芸評論に対する
向き合い方、受容の仕方とは
ズレているのかもしれませんけど。
