『忘却の声』
(2011/玉木亨訳、東京創元社、2014.6.27)

認知症患者の視点で書かれたミステリ
という惹句に興味を抱いて
読んでみました。


近所に住む親友を殺した容疑で
警察の捜査の対象となっているのは
かつては、手を専門とする
優秀な外科医だった
認知症の女性ジェニファー。

そのジェニファーの内面描写と
彼女が外部と交わす会話の言葉、
彼女の耳に入ってくる外部の言葉、
彼女の記憶を補佐するために書かれた
メッセージ・ノートの記述
(いろんな人が書き込んでいます)
といったものだけで構成された小説です。

ジェニファーの
これまでの生涯なども含め
一貫するストーリーはありますが
一般的な小説のように
リニアな時間の順序通りに
情報が示されるわけではなく
しかも回想場面が
回想場面だとはっきり分かるように
書かれているわけでもないので
慣れていない人にとっては
ちょっと読みにくく感じるかもしれません。

その、読みにくく感じるスタイルが
ミステリとしての謎の興味を
補完するようになっています。


以下、ミステリとしての趣向に
若干ふれます。
まっさらな状態で読みたい方は
ご注意ください。




ミステリとしては
認知症の元女医が
なぜ親友を殺したのか
というのが
メインの謎といえるでしょう。

被害者の右手の指は
親指を除く四本が切り取られていて
それも謎のひとつとなっています。

上巻とオビ表、下巻のオビ背に
「わたしは、親友を殺したの?」
とありますけど
これをフーダニットを示唆する
として解釈すると
登場人物も少ないですし
あまり意外性は感じられないでしょう。

やっぱり、なぜ殺したのかという
動機の謎を感心の的にした方が
良いのではないかと思います。

被害者である
ジェニファーの親友アマンダが
どういうキャラクターであるかが
じわじわと分かってくるあたりは
マーガレット・ミラーみたいな
タイプのミステリがお好きな方には
楽しめるかと思います。


ただ、この本を
ミステリとしてみた場合
ミステリとしてのプロットは
素朴すぎます。

そのプロットを知るために
700ページ近く読まされたのかと思うと
勘弁してくれよという気にもなる
かもしれない(苦笑)

ですから本書は何よりも
小説として、
物語ではなく
語りのスタイルを楽しむ小説として
受容しようとする方が
より楽しめるかと思います。


もちろん、認知症を扱った
医学小説という読み方もあるでしょう。

実際、医療・健康を扱った
優れた文学に与えられる
ウェルカム・ブック・プライスというのを
受賞しているらしい。

様々なミステリ賞の候補にも
あげられているようですが
本書は
たまたまミステリとしても読める
医療・健康を扱った文学だと
考えた方がいい。

海外小説には、そういう、
たまたまミステリとしても読める
というタイプの小説が多いのですが
プロパーのミステリと思わなければ
そこそこ楽しめるわけです。


その意味では、本書の場合、
認知症患者の犯罪の追求とか
法の適用のあり方とかいった興味も
あるわけでして
そこなんかもちょっと面白い。

もうひとつ、認知症患者は
聞いたことをすぐに忘れるから
教会での告解よりもいいと言って
ある登場人物が自分の犯した罪を
ジェニファーに告白する場面があって
ミステリとしての真相とは
直接的には関係ありませんが
(レッド・ヘリングの解消
 ということはあるかも)
ちょっと興味深かったです。


全体が四部に分かれており
第一部は、たぶん事件が発覚してから、
それまで自宅で介護を受けていた
ジェニファーが
介護施設に移されるまでが描かれます。

第二部は、ジェニファーが
その施設から
抜け出すまでが描かれていて
そこまでは
「わたし」という一人称が
まだ使われていたのですが
第三部に入っていきなり
「あなた」という
二人称の小説になります。

第三部でジェニファーは警察に保護され
そこで事件の結末がいったん付いて
犯罪者のための介護施設に入れられる。
第四部は、その
犯罪者用の介護施設での場面が描かれ
本当の真相が語られるのですが
そこでの人称は「彼女」になってます。

「わたし」→「あなた」→「彼女」
という人称の変化が
認知症患者が自分および外界を認識する
レベルの変化に対応している。
つまり、認知症の初期段階では
自分のことをきちんと認知していた者が
症状が進むにつれて
自分のことすらも認知できなくなっていく
という
アイデンティティの変質を
人称の変化で表現しようとしている
ということでしょう。

これはなかなか、
書き方としては面白いアイデアでした。


アイデアとかいうと
小説(ないし文学)を
そのテーマ性でしか楽しめない人は
顔をしかめるかもしれませんが
小説史においては
描写や語りの技術にこだわる
技巧の歴史というべきものがありまして
というか、あると思うのですが
それも評価の重要なポイントとなります。

で、小説の技術のひとつに
「意識の流れ」というのがあります。

登場人物の内面を
語り手が説明するのではなくて
そのまま描いてしまおうとする
一種のリアリズム表現です。

ジェイムズ・ジョイスが
『ユリシーズ』(1922)という作品で
様々なレベルの「意識の流れ」表現の
実験をしたことはよく知られています。

『ユリシーズ』の最終章で
主人公の妻モリーが
男女の営みをしながら頭に浮べていたことを
大文字や句読点抜きで
ただ単語を並べるというスタイルで描写したのは
あまりにも有名で
丸谷才一が関わった翻訳では
句読点抜きの漢字抜きで書き連ねる
という実験をしています。

その後、ウィリアム・フォークナーが
精薄児の「意識の流れ」を
試みたりもしてますが
その伝でいえば本作品は
認知症患者の「意識の流れ」を
書こうと試みているわけで
そういう語りの実験小説としての面白さ
というのは無視できないと思います。


実際に認知症患者を家族に持つ人は
不愉快に思われるかもしれませんし
読むのが辛い小説かもしれませんが
いかにもアメリカらしい
家族小説の要素もあります。

だから、結末は
ある種のハッピーエンディングと
いえるかもしれません。


邦訳書は、
見開きページの左肩に来る
「柱」と呼ばれる部分が
原題のままだし
目次はないし
珍しく、訳者あとがきや
解説の類いもありません。

東京創元社の本としては
若干、違和感を覚える造りですが
オビやカバー袖に
原作者がアメリカ人だとか、経歴など
必要最小限の情報は書かれていますし
認知症患者の視点から書かれた小説
というふうに考えると
そういう素っ気なさ(不親切さ? w)も
ひとつの味かもしれませんね。


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