こちらは7月5日の記事の続きです。
そのつもりでお読みください。



ジュリアン・シモンズは
『ブラッディー・マーダー』という
ミステリの歴史書を書いています。

副題は「探偵小説から犯罪小説への歴史」。

1972年に刊行されてから
1985年と1992年に増補改訂版が出て
それら3種類の版を
すべて取り込んで訳したものが
新潮社から2003年に出ました。

『ブラッディー・マーダー』
(宇野利泰訳、新潮社、2003.5.30)

右肩にシワが寄っているのは
パラフィンをかけているからです。f^_^

本書は昔からよく知られた評論書で
探偵小説 Detective Story は
犯罪小説 Crime Fiction へと変貌し
いわゆる本格ミステリは滅亡する
という歴史観が
日本の本格ファンの不興を買って
シモンズ嫌いを生むきっかけになったと
目されている本でもあります。


まあ、それはさておき
宮脇孝雄は『書斎の旅人』
エドマンド・クリスピンについて書く際
当時まだ未訳だった
『ブラッディー・マーダー』で
クリスピンを紹介している箇所を引用して
クリスピンの特徴を簡潔にまとめています。

そこで宮脇は
クリスピン作品の特色として
「喜劇的なセンスとウイット、
 《言葉による騙し》」
という要素をあげているんですね。

「言葉による騙し」というのは
verbal deception の訳だとも
書かれているんですが
宇野利泰の訳で確認してみても
該当する表現が見つからない。


何でだー?! と思って
読めもしないのに買っておいた
原書で該当確認してみると
次のように書かれていました。

Crispin's work is marked
by a highly individual sense
of light comedy, and
by a flair for verbal deception
rather on the Christie manner.(p.167)

この原文は
3rd Revised Edition によるもので
手持ちの、アメリカ版の
以下の本から引用しています。

Bloody Murder
(Mysterious Press books, 1993.2)


これを宇野利泰は次のように訳しています。

「クリスピンの作品の
 特質に挙げられることだが、
 その作風には
 独自の軽喜劇的な傾きが見られる。
 そのような筆致を巧みに活用して
 学識を伴う言葉遊びにも長じ、
 アガサ・クリスティの場合とは
 少しく違ったかたちで、
 読者の推理を惑わすのに成功した。」(p.240)

同じ箇所を宮脇孝雄は次のように訳しています。

「クリスピンの作品は、
 極めて個性的な軽喜劇のセンスと、
 クリスティー的な《言葉による騙し》を
 その特長とする。」(p.193)

明らかに宮脇による試訳の方が
シモンズの原文に近いのですが
これも初版から第3版までを
全部「取り込んで按配した」
(新庄哲夫。新潮社、p.470)
結果だとしたら
何とも、困ったもんだあ
という感じですね。


宇野利泰の訳文だと、どこが
verbal deception の訳にあたるのか
ちょっと見当がつきません。

「言葉遊び」かと思いつつも
違和感がありますし
「読者の推理を惑わす」だと
verbal はどこに行った
という感じがしますしねえ。

ちなみに原文にある flair というのは
嗅覚、才能、センスの良さ
という訳語が
手許の辞書に載っています。

だとしたらやっぱり
「言葉遊び」かなあと思いつつ
でも「言葉遊び」だと
ちょっと違うような……


おそらく当方が、
宮脇訳が載っている『書斎の旅人』の
第27章の文脈に影響されているので
違和感を覚えるのかもしれませんが
でもここはやっぱり
宮脇訳を採りたいところです。

宮脇訳の方が簡潔で
キャッチフレーズ的にも使えて
分かり易いですしね(笑)


その「言葉による騙し」とは何か
といいますと
宮脇孝雄は次のように書いています。

「《言葉による騙し》verbal deception
 という耳慣れない言葉は、
 クリスピンの作品の
 トリックについていったものだが、
 むしろ『ミスディレクション』と
 訳したほうが
 わかりやすかったかもしれない」(p.198)

ミスディレクション Misdirection は
辞書にも載っている言葉ですが
ここではミステリの用語として
使われています。

ちょっと詳しいファンなら
よく知っている用語なので
『ミステリマガジン』という
ちょっと詳しいファンが読む雑誌では
普通に通用するかもしれませんが
一般的には
「ミスディレクション」と訳されても
「わかりやす」くはないでしょうね(苦笑)

ミスディレクションというのは
松田道弘の
『とりっくものがたり』(1979)
あたりから
ミステリ・ファンに
知られるようになった言葉です。

昔、「レッド・ヘリング」と
いわれていた用語の
現代的な表現で
マジック(奇術)で使われる言葉の
輸入だと思いますが
(松田道弘はマジックの研究家です)
ひと言でいえば「誤導」という意味です。
(レッド・ヘリングだと
 「偽の手掛り」という意味なんですが)

要するにクリスピンは
言葉(言語表現)で読者を誤導する
というトリック(スタイル?)を
特徴としている
ということになりましょうか。

言葉で読者を誤導するというのは
どういうことかというと
これまた具体例を挙げないと
分かりにくいのですが……

というわけで長くなったので
今回はこのへんで。

To be continued.


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