『ねじれた家』(1949)を読んだあと、
次に読むとしたら
『無実はさいなむ』(1958)かなあ
と書きましたが
昔の読了リストを見直してたら
そちらは、2010年の7月に
読み終えてました。
ぜーんぜん覚えてなかった。( ̄▽ ̄)
そこで思い立って
読了リストと記憶をたどってみたところ
クリスティーの未読長編は
あと7冊ほどだということが判明。
子ども向けの訳で読んだものも
含めるとすると
厳密には、あと10冊ですけどね。
残り10冊を切ったことを知って
なかなか嬉しくなりました。
まあ、昔、読んだものは
ほとんど覚えてませんけどね(苦笑)
まあ、ともかく
『無実はさいなむ』は
読み終わっていたので
ではということで手にとったのが
『NかMか』でした。

(1941/深町真理子訳、
ハヤカワ・ミステリ文庫、1978.12.15)
手許にあるのは
1983年7月15日発行の11刷です。
最初に訳されたのは
1957(昭和32)年で
ハヤカワ・ミステリ(通称ポケミス)の
一冊として出ました。
今回の本はそれ以来、
約20年ぶりの改訳本で
出た時は、やっと出たか~、と
思ったものでした。
でもまあ、手許の本は
かなり後になって
古本で買ったものですけど。(^^ゞ
クリスティーのデビュー作で
エルキュール・ポアロが初登場する
『スタイルズ荘の怪事件』(1920)の後
続いて発表された長編第2作
『秘密機関』(1922)は
トミーとタペンスという
後に結婚する若いカップルが初登場する
冒険スリラーでした。
この二人は続いて
連作短編集の『二人で探偵を』(1929。
早川版の邦題は『おしどり探偵』)に登場。
その後は、ずーっと書かれないまま
12年ぶりの登場となったのが
今回の長編『NかMか』であるわけです。
舞台は1940年、
ドイツとの戦争が始まったばかりの時期です。
郊外の下宿屋にドイツ人のスパイがいる
という情報を得た諜報局が
アマチュアとして顔を知られていない
ということで
トミーとタペンスのベレズフォード夫妻に
スパイ網の摘発を依頼するというお話。
最初はトミーだけに依頼したんですが
トミーがその下宿屋に着いてみると
タペンスが別人に成り済まして
ちゃっかり先回りしていたというのは
ちょっと笑いを誘われましたですね。
下宿屋に住んでいる面々の中で
誰がスパイなのかという謎を扱った
フーダニットとして
読めなくもないですけど
勘のいい人ならある時点で
ある人物に疑惑を向けられるでしょうし
基本的にぬる~いスリラーだと思います。
ただ、興味深かったのは
第一次世界大戦中に
ドイツ占領下のベルギーで
敵味方分け隔てなく看護活動に従事し
傷ついた英仏兵士の逃亡を助けたために
ドイツ軍に捕らえられ銃殺された
イギリス人看護師
イーディス・キャベルの言葉が
二度ほど引用されていることでした。
「愛国心だけではじゅうぶんではありません。
敵に対して憎悪の念を
いだくことがあってもならないのです」
(p.85/p.131)
トミーとタペンスはキャベル看護師を
「真の愛国女性」(p.132)と
捉えているわけですが
看護師がこう言った文脈を
よくは知らないので
クリスティーがこの作品で引いた
意図については
何ともいえません。
あと、
戦争だから
敵国人を憎むことは仕方のないことで
それは「わたしたちが
戦争ちゅうだけかぶっている仮面」にすぎず
「そういう感情は戦争につきものの、
戦争の一部です
——たぶん必要な一部なんでしょう——
でも一時的なものなんです」(p.131)
というタペンスの言葉は印象的でした。
戦争相手の敵国でも
一人一人のドイツ人の中には
愛すべき人間もいる、という
素朴な感覚を背景としたものですが
こういう言葉を発するキャラクターを
戦時下の国内で書けただけでなく
それがそのまま刊行できたこと、
そのことに感心させられました。
戦意高揚の気味はありますが
単なる戦意高揚小説ではない
ということです。
あと、トミーとタペンスの子どもたちが
戦争は若者に任せて
中年は引っ込んでいるべきだと
優しく思っている一方で
両親が命がけの活躍をしている
というあたりは、
知らぬは子どもばかりなり、で
なかなか愉快でした。
お父さんお母さんだって
捨てたもんじゃないだろ、とか
お父さん、お母さん、すごーい!
とかいうような
アメリカあたりのホームドラマに
ありそうな(あ、偏見です【^^ゞ )
親の世代の自慢とか
子の世代の賞讃とか
世代間の馴れ合いのような描写が
ないのがいいですね。
親は親の世代、子は子の世代で
各々、自分たちの世界を持っていて
仲はいいけど依存し合ってない、
そういう時代だったのではないか
(そう考えられていたのではないか)
と、思った次第です。

次に読むとしたら
『無実はさいなむ』(1958)かなあ
と書きましたが
昔の読了リストを見直してたら
そちらは、2010年の7月に
読み終えてました。
ぜーんぜん覚えてなかった。( ̄▽ ̄)
そこで思い立って
読了リストと記憶をたどってみたところ
クリスティーの未読長編は
あと7冊ほどだということが判明。
子ども向けの訳で読んだものも
含めるとすると
厳密には、あと10冊ですけどね。
残り10冊を切ったことを知って
なかなか嬉しくなりました。
まあ、昔、読んだものは
ほとんど覚えてませんけどね(苦笑)
まあ、ともかく
『無実はさいなむ』は
読み終わっていたので
ではということで手にとったのが
『NかMか』でした。

(1941/深町真理子訳、
ハヤカワ・ミステリ文庫、1978.12.15)
手許にあるのは
1983年7月15日発行の11刷です。
最初に訳されたのは
1957(昭和32)年で
ハヤカワ・ミステリ(通称ポケミス)の
一冊として出ました。
今回の本はそれ以来、
約20年ぶりの改訳本で
出た時は、やっと出たか~、と
思ったものでした。
でもまあ、手許の本は
かなり後になって
古本で買ったものですけど。(^^ゞ
クリスティーのデビュー作で
エルキュール・ポアロが初登場する
『スタイルズ荘の怪事件』(1920)の後
続いて発表された長編第2作
『秘密機関』(1922)は
トミーとタペンスという
後に結婚する若いカップルが初登場する
冒険スリラーでした。
この二人は続いて
連作短編集の『二人で探偵を』(1929。
早川版の邦題は『おしどり探偵』)に登場。
その後は、ずーっと書かれないまま
12年ぶりの登場となったのが
今回の長編『NかMか』であるわけです。
舞台は1940年、
ドイツとの戦争が始まったばかりの時期です。
郊外の下宿屋にドイツ人のスパイがいる
という情報を得た諜報局が
アマチュアとして顔を知られていない
ということで
トミーとタペンスのベレズフォード夫妻に
スパイ網の摘発を依頼するというお話。
最初はトミーだけに依頼したんですが
トミーがその下宿屋に着いてみると
タペンスが別人に成り済まして
ちゃっかり先回りしていたというのは
ちょっと笑いを誘われましたですね。
下宿屋に住んでいる面々の中で
誰がスパイなのかという謎を扱った
フーダニットとして
読めなくもないですけど
勘のいい人ならある時点で
ある人物に疑惑を向けられるでしょうし
基本的にぬる~いスリラーだと思います。
ただ、興味深かったのは
第一次世界大戦中に
ドイツ占領下のベルギーで
敵味方分け隔てなく看護活動に従事し
傷ついた英仏兵士の逃亡を助けたために
ドイツ軍に捕らえられ銃殺された
イギリス人看護師
イーディス・キャベルの言葉が
二度ほど引用されていることでした。
「愛国心だけではじゅうぶんではありません。
敵に対して憎悪の念を
いだくことがあってもならないのです」
(p.85/p.131)
トミーとタペンスはキャベル看護師を
「真の愛国女性」(p.132)と
捉えているわけですが
看護師がこう言った文脈を
よくは知らないので
クリスティーがこの作品で引いた
意図については
何ともいえません。
あと、
戦争だから
敵国人を憎むことは仕方のないことで
それは「わたしたちが
戦争ちゅうだけかぶっている仮面」にすぎず
「そういう感情は戦争につきものの、
戦争の一部です
——たぶん必要な一部なんでしょう——
でも一時的なものなんです」(p.131)
というタペンスの言葉は印象的でした。
戦争相手の敵国でも
一人一人のドイツ人の中には
愛すべき人間もいる、という
素朴な感覚を背景としたものですが
こういう言葉を発するキャラクターを
戦時下の国内で書けただけでなく
それがそのまま刊行できたこと、
そのことに感心させられました。
戦意高揚の気味はありますが
単なる戦意高揚小説ではない
ということです。
あと、トミーとタペンスの子どもたちが
戦争は若者に任せて
中年は引っ込んでいるべきだと
優しく思っている一方で
両親が命がけの活躍をしている
というあたりは、
知らぬは子どもばかりなり、で
なかなか愉快でした。
お父さんお母さんだって
捨てたもんじゃないだろ、とか
お父さん、お母さん、すごーい!
とかいうような
アメリカあたりのホームドラマに
ありそうな(あ、偏見です【^^ゞ )
親の世代の自慢とか
子の世代の賞讃とか
世代間の馴れ合いのような描写が
ないのがいいですね。
親は親の世代、子は子の世代で
各々、自分たちの世界を持っていて
仲はいいけど依存し合ってない、
そういう時代だったのではないか
(そう考えられていたのではないか)
と、思った次第です。
