
(1949/井上一夫訳、創元推理文庫、1966.6.3)
最初、東京創元社の
『世界推理小説全集』第52巻として
1958年に刊行され
その後、文庫化されました。
映画公開に合わせて文庫化されたので
カバーには映画のスチールが使われています。
上の写真は
1981年9月11日発行の第18版ですが
まだ、映画スチール・カバーのままです。
こういう映画スチール・カバーは
あまり好きではないのですけど
今となっては珍しいのかな。
アーチャーを演じたのは
ポール・ニューマン。
劇中での名前は
アーチャーではなく、ハーパーでした。
カバー裏のパメラ・ティフィンは
失踪した石油王の娘ミランダを演じてます。
ただし映画ではなぜか
養女という設定のようですが。
ちなみに、ちょっと検索してみたら
映画の『動く標的』(1966)って
オンデマンドでしか
DVDになっていないんですね。
これはびっくりでした。
ロス・マクドナルドの
シリーズ・キャラクターとして有名な
リュー・アーチャーの長編第1作です。
(早川版の表記は「リュウ」ですが
創元版の表記は「リュー」です)
読むのは今回が初めて。(^^ゞ
以下、できるだけボカして
感想を書くことにしますが
勘のいい人なら
真相に気づくかもしれませんので
ご注意ください。
といっても、この本
現在、品切れ中のようですが……。
本作品のミステリとしてのキモは
進行中の事件に便乗して
自分が目的とする人物を殺そうとする
というプロットにあると思います。
そのプロット自体は良いのですが
犯行が行き当たりばったりで、
まあ、それも良いとしても
第2の殺人は頭が悪すぎるというか
アーチャーが確認すれば、
意識的に確認しようとしなくとも
保安官に会ってしまえば
いっぺんで気づかれてしまうあたり
計画にも何にもなっていない。
そこらへん
ミステリのプロットとしては
弱すぎる気がします。
ただ、犯人の論理としては
好都合な状況におかれて
ついふらふらっとやってしまった
という感じのようで
最後に自白する際
キルケゴールなんかを持ち出すあたりが
そのことをよく示している気もします。
まさか、キルケゴールの名前が出てくるとは
思いもよりませんでした。
ちょっと嫌味な感じもしますが
そこらへんがロス・マクらしいといえば
いえないこともない(苦笑)
思うに、それまでの本格ミステリとは違い
細部まで練られた計画犯罪ではなく
状況にうまく対応して
自らの目的を果たす犯人
というのが
本格ミステリとは異なる
当時なりの新しさになっていると思います。
でも、アーチャーが保安官に会えば気づく
というのが、ミステリとしては安易すぎる。
自分は安易だと思うものの
それがリアルだと思う人も
いるかも知れませんけどね。
進行中の事件に便乗するという
プロットはいいんですけど
ミステリとしたら
犯人を詰めるロジカルな推理が
欲しい気もします。
題名の『動く標的』というのは
152ページに出てきます。
「退屈したときに(車を)とばすのよ。
きっと何かに出くわすぞと、
自分をだますようにしてね。
何か新しいものに出くわすぞと思わせるのよ。
むき出しの光り輝いている、
路上の動く標的とでもいうようなものよ」
カッコ内は自分(老書生)の補足です。
石油王の娘ミランダが
車を運転するとき
猛スピードでとばすことがある
と言うのを聞いて
アーチャーがその理由を聞いた際に
ミランダが答える台詞です。
何かに出くわすと考えて
走っているわけですから
自分が「標的」となって神の銃弾、
まあ、「運命」といってもいいですけど
何かそういうものにぶつかる(ぶつかられる)
ということでしょうか。
「新しいもの」に出くわすと言っていますが
「退屈」という閉塞状況を
突き崩すということなら
それは「死」でもいいわけでしょう。
そんなことも考えさせたり。
最近では、経済用語(?)として
時間とともに要求(目標)が変わる
という意味合いもあるようですが
ロス・マクの小説の場合は
もう少し実存的なニュアンスだと思われます。
ところで、本文庫の解説で
故・中島河太郎がアーチャーについて
次のように書いています。
彼の「仕事の大部分は、人間を監察し、判断すること」だった。その意味では彼はのっけから他人を信じることはない。「邪悪というものが女の本性」だと思うほど、軽々しく女性讃美に傾かないし、「金が人生の血液みたいなものだ」という見方も生まれてくる。なるほど彼も美しい女性に心を動かすことはあっても、決して溺れないし、仕事の報酬は相当の多額を要求する。安価な感情や人情に動かされずに、着実に自分の職務を果して行く。いわゆる非情という見方が生まれてくるのも無理はない。だが感情的なものを排して、あくまでも責任を果そうとする強烈な意志の背後になにものかがなければならない。利害や危険を顧みず、真相を究明せずにはおかない行動を規制するものがなくてはならないはずである。それらに触れることなく、鉄の意志と行動を描いたところに、ハードボイルド派の真価が発揮されている。(pp.329-330)
最後の三文(「だが」以下)を読んで
何をいいたいか分かる人は
何人いるかしらん。
(最後の一文の「それら」が
何を指しているのかが
よく分からない……)
それは措くとしても
「美しい女性に
心を動かすことはあっても、
決して溺れない」というのは
少なくとも『動く標的』に関しては
当たっていない気がします。
美しい女性に心を動かして、
溺れているじゃないか
といいたいのではありません。
本作品でアーチャーが絡む女性がいるとすれば
失踪した石油王の娘である
20歳のミランダ・サンプスンだろうと思いますが
アーチャーは彼女と15歳くらい離れていて
叔父さん的態度をとろうと思いつつも
挑発されてキスしたりするような場面もある。
その関係の心理的ありよう、揺らぎを
単に女に溺れないといって済ますのは
少々乱暴ではないでしょうか。
こういう中年男性の心理を
失礼ながら、中島先生は
よく分かってらっしゃらない
といいたくなるわけでありまして。
そこらへんの
「分かってらっしゃらない」ところが
「時代」ということでもあるのですが
こういう解説を読んで作品に接すると
違和感を覚えると思います。
訳も古いですけど
解説もまた、古い気がします。
自分の印象としては
アーチャーさん、ミランダに対しては
挑発されて(キスされます)
妙な気分になりながら
その妙な気分に戸惑ってなのか
ある場面では強引にキスしたりしつつ
最後には自分の社会的役割を鑑みて
突き放す、というような感じを受けます。
ミランダの婚約者である
アーチャーの友人の弁護士は
彼女と20歳離れていて
このじゃじゃ馬はあいつには扱いきれまい
とか思う場面もあります。
そういう、
一種の対抗意識めいた心理なんかも
丁寧に拾っていかないと
型通りのハードボイルドみたいな印象しか
解説の読み手には与えないと思います。
それでは、小説が可哀想ですね。
中島先生は
アーチャーは「新しい型の探偵」だと
「自負している」とも書いてますが
引用されているアーチャーの台詞は
コーヒーよりも酒の方がいいんでしょうね
と依頼人に言われる場面で
朝から酒はやりません、
と言うのに続いて出てくる台詞です。
私立探偵は、日の高いうちから酒浸り
というイメージに対するアンチなわけで
当時そういうイメージが
小説や映画を通して流通していたことを
よく示すやりとりなんではないかと
想像されます。
ジョナサン・ラティマーの
ビル・クレイン・シリーズとか
クレイグ・ライスの
J・J・マローン・シリーズとかを
頭においているのかもしれません。
それとも、日本に訳されもしない
B級C級作品や映画が想定されているのか。
そういうことを想像させるあたりが
面白いと思うのですけどねえ。
ちなみに、リュー・アーチャーは
6月2日生まれの双子座のようで
自分と1日違いなので
ちょっと親近感が湧きました。
二十歳の小娘に翻弄されるあたりも
ちょっと親近感が湧いたり(苦笑)
バツイチってとこが
ちょっと違いますけどね。
