『暗いトンネル』
(1944/菊池光訳、創元推理文庫、1972.2.25)

マーガレット・ミラーの旦那さんで
私立探偵リュウ・アーチャーものの書き手である
ロス・マクドナルドの第1長編です。

最初、本名の
ケネス・ミラー名義で刊行されました。

ずっと昔。古本で買っておいたもので
例によって(例によって?)
今回、初めて読みます。


デトロイトにある大学を舞台とした話で
大学で戦時委員会の役員を務める
助教授の主人公が
やはり同委員会の役員である親友が
委員会内にスパイがいることを洩らした後
墜落死を遂げるという事件に遭遇します。

親友は自殺に見せかけて
殺されたのだと信じる主人公は
その仇を討つために
スパイとの戦いを繰り広げる
というお話です。


訳者あとがきに
後にマクドナルドが
自作をまとめたオムニバス本に書いた
序文(の一部)が引かれていて
ナチス・ドイツにおける経験を基にした
ジョン・バカンの影響を示した作品
と自注している通り
ヒッチコック映画のような
スパイ・スリラー作品です。

ただし、それだけにとどまらず
まるで本格ミステリに使われるような
トリックと趣向が出てきて
びっくりしました。


発表された時期が時期ですから
戦意高揚的な内容になるのは
致し方ありませんが
77~81ページにかけて
主人公と、敵対者である
ドイツ人との間で交わされる
道徳をめぐる議論は
なかなか興味深い。

「道徳の基礎は、公益にある」のであり
それは「共同社会の公益」であり
その「共同社会」とは
「政治的集団あるいは国とか、
そのときに自分が所属している集団」だ
というドイツ人に対して
主人公は「国家を超越する道徳」はある
という考え方をしており、
それに対してドイツ人が
「あなたは、個人の感情や衝動を
法や国の利益に対抗させるにちがいない」
と指摘すると
「邪悪な法は国家の利益にはならない。
個人の良心の正当性を否定すれば、
国家の行為に対する歯止めが完全に失われる。
国家のすることはすべて正しい、
ということになってしまう」
と応じます。

さらにドイツ人が
「国のすることが成功であれば正しい(略)
不成功であれば正しくない」
というのに対して主人公が
何をするのに成功した場合かと問うと
「その国の国民の、あるいは、
できるかぎり多数の国民の利益を
増進することだ」と答える。
「国民の多数の利益になれば、
少数派の迫害あるいは不幸は是認できる、
それも多数の利益に含まれる、
ということかね?」と主人公が聞くと
「明らかにそうです」とドイツ人が答える。

後のやりとりは
当時のナチス・ドイツの
ユダヤ人迫害を前提とした議論ですが
先の、公益をめぐる議論も含め
小説中に出てくるドイツ人の言葉は
現代の、どこぞの国の政治指導者の発言と
あまり変わらないような気もするのが
面白いですね。

使い古されたストーリーの中に
現代でも通用するようなトピックが
見出せるあたり
さすが、という感じです。

そして、もしかしたら
「公益」対「個人の良心」という図式は
ハードボイルドないし私立探偵小説における
(少なくともロス・マクが
 後に書くようになる場合の
 当該ジャンルにおける)
私立探偵のモラルの根拠というところに
つながっていくのかもしれないなあ
とか、考えたことでした。


ちなみに
もちろん(もちろん?)この本
現在、品切れ中でございます。

上に掲げたカバーの装丁は
日下弘の手になるもので
昔の創元推理文庫の
こういうシンプルな感じのものは
割と好きでした。


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