今回もライブで観ることができました。

以下、ややネタ割り気味の感想です。
今回はサキの復讐の動機が
明らかになる回ですし
いちおう断り書きを入れておきます。

まだ観ていない方
これから観るという方は
ご注意ください。

プラス、以下長文。深謝。




10分近くあったアバンタイトルでは
隼人が須藤理事長を救い出してましたが
須藤家まで走っていく
というのも不自然なら(普通は車を使うと思う)
火を吹いている家の中に
飛び込んでいくというのも
不自然さが拭えませんでした。

助け出された後の
須藤理事長の呆けぶりは
熱演でありました。

今回、演技面で観ごたえがあったのは
個人的には、それくらいかなー( ̄▽ ̄)


続いて、
隼人がサキからの呼び出しを受けて
直接対決する場面は
ちょっと鼻白んでしまいました。

最初から死なす気は
なかったのではないか、と思ったり。

母親の最後の言葉を
それらしくなく伝えているのには
ちょっと感心しましたけど。


そのあと、
なぜサキが5人の男に復讐するのか
その理由が
回想シーンとして描かれてきましたが
だいたい見当がついてたとはいえ
やっぱり「逆恨み」に近いものでした。

それでも、IT企業社長の中川とか
須藤理事長やその息子・和繁の場合、
視聴者の印象が悪くなるように
描かれていましたけれど。

須藤理事長は
空きベッドくらい何とかしろ
と怒鳴りつけてましたが
あれはこれまで描かれてきた性格と
ちょっと合わない気がしました。

それに、今回のようなケースだと
中川社長と野村弁護士については
どうやってあの時の人間だと
確定したのか。

顔を覚えていて
雑誌に載った写真などで
分かったのだと
考えるしかないのですが
ちょっと説明的カットが欲しかった。

いずれにせよ
状況が状況だっただけに
すごい記憶力としか
いいようがないですけど。


今回の話でいちばん不思議なのは
サキの実の両親(隼人の両親)が
工場を立て直した時
サキを探そうとしなかったのか
という点です。

そして、探さなかった両親には
何ら怨みを抱かないという
サキの心理です。

怨みを抱いちゃうと
今回の最後で
サキがイメージしたような幻想には
つながらないわけですけど。

ひたすら母親に名前を読んでもらい
「普通の家族」であることを求め
両親を免罪する一方で
弟を追いつめる、という
サキの心理的なありようは
ちょっと子どもっぽい気が
するように思えてなりません。

サキのやり口がクールなだけに
その辺のギャップには
違和感を覚えました。

もしかしたら脚本や演出の方は
最後は子どもっぽさが露わになるよう
意図していたのかもしれませんが。


あと、育ての両親や義理の弟には
何もしようと思わない
というのも不思議です。

そこまで描くと11話じゃ収まらないし
巌窟王並みの一大復讐絵巻に
なっちゃいますけどね(苦笑)

それに尊属殺人的なモチーフは
やはりテレビドラマでは
タブーということなのでしょうか。


最後にサキがイメージする
持ちたかった普通の家庭が描かれますが
あれが「普通の」家庭とは
とても思えません。

テレビドラマに出てくるような
「普通の家庭」のイメージでしかない
と、どうしても思ってしまう自分がいます。

やっぱり自分は
ホームドラマ的な家族像は
好きになれないみたいです(苦笑)


このドラマを見るきっかけとなった
肝腎の黒川さんは、
隼人とサキが対決した後
サキが病院を辞めてマンションを引き払い
行方知れずになってから1年後、
墓参りに行く途中(?)で
隼人の実家に寄っていく場面で登場。

そこでサキが書いていた手紙を見つけ
その真新しさから
ついさっきまでいたと気づき
駆け出す隼人を見送る
というシーンでした。


その手紙ですが
確かにこれまでのドラマにも
手紙を書いているシーンは
あったと記憶していますので
それはいいんですけど
内容があまりにも
行動と合っていない気がされて
なりませんでした。

サキが手紙を読んでいるときの
仲間由紀恵の語り口は
優しいとか楽しそうとかいうより、
上に書いたこととも関連しますが、
子どもっぽい、幼い印象を受けました。

そうしたサキのありようや
サキが抱く幻想の「普通の家族」の描写は
視聴者に対してサキを
分からない存在にするのではなく
分かりやすい存在にしよう、
共感させようという意図が
見え透いているような気がされて
ならないのでした。


そして最後の最後、
子どもの名前を何と付けるのかは
見当がつきますが
そもそも誰の子どもなんでしょう???

家族(母親)を奪われ
弟と決裂したサキが
自ら新しい家族を作ろうとする
という方向に落としたいのは
分かりますが……

興味深いのは、このドラマ
基本的に父親不在のドラマなんですよね。
父親的存在が出てきても
須藤理事長のように
権威を失墜する父親でしかない。

赤ん坊の父親が曖昧なのも
父親不在の空間を
象徴しているように思えます。

その意味では
誰の子どもか分からなくとも
作品の論理からすれば
構わないわけですけれども。