当時の生活がいちばんよかった。第一次大戦がおわってからは、ドイツでは、一家族で二人しか子供がもてなかった。これはよくないことでした。家族にとって、結婚にとって、家庭にとって、国家にとってよくないことでした。こんな状態では、ドイツは亡びてしまったでしょう。私たちは、ヒトラーの語っていることは、一種の力強さについてだと確信しました。彼は強さについて語っていた。1933年以降、子供たちを大勢もてるようになり、未来が開けました。貧富の差がちぢまりました。どこでもそれがわかりました。チャンスが与えられたのです。1935年、おやじの店をひきついだ私に、政府から2,000ドルが融資されました。前代未聞のことでした!
 体制が民主主義だろうと、独裁だろうと、何だろうと発展には関係なかったですね。政府の形態にも無関係でしたよ。少しでも金とチャンスがあれば、どんな政治体制か、だれも注意しませんでした。体制のなかにいれば、その長所が見えるんです。体制の外にいれば、利益がないから、欠点がわかります。ロシアでも同じことでしょうね。どの国でも、どんな時代でも、そんなふうなものです。ちがうでしょうかね。『なにごとも総統のおかげです』と、子供たちは学校でいいました。いまでは、『アメリカのおかげです』といっています。共産主義になったら、『マレンコフ(※注)のおかげです』とでもいうのでしょう。人間なんてそんなものです。私はそんなふうにはできませんがね。

※マレンコフ・・・・・ソ連の政治指導者。スターリンの部下。

(M.マイヤー『彼らは自由だと思っていた』 未来社)
 

 

 ヒトラーは、ほかの何百万人と同じようなただの兵士だったけれど、大衆への「勘」を持ち、情熱をこめて語ったのは彼だけでした。人びとが注目したのは、党の綱領そのものではありません。人びとは、何か新しいことをきくために、何でもいいから新しいことをきくために、集会に出かけたのです。経済状況に絶望していた彼らには、『新しいドイツ』はすばらしいものに思えました。でも、彼らの視野は深くも広くもなかったし、彼らには何もわかっちゃいませんでした。ヒトラーのはなしは、政府に反対、敗けた戦争に反対、平和条約に反対、失業に反対、というようなことばかりでした。どれもこれも人びとにうけました。『これは何なのか』と、インテリ連中がいいだしたときにはすでに、庶民大衆のなかに確固たる基盤ができていました。これは労働者社会主義党、労働者が社会秩序を支配する党でした。インテリの党ではありませんでした。
 ドイツ国内の状況は、悪化する一方でした。人びとの日常生活をささえていた真の根底がなくなってしまいました。自殺や風俗の乱れぶりをみて下さい。人びとは、ラジカルななにかを、本当の変化を望んでいました。人びとのこの願いは、とくに中部ドイツと、工業地域と、北部諸都市で、共産主義のかたちで続々とあらわれてきました。これはヒトラーのでっちあげではなく、これが
事実でした。ラジカルな変化を望まないから、アメリカのような国々では共産主義が存在しないのです。
 ヒトラー主義は、同じようにラジカルななにかで共産主義に対抗しなければなりませんでした。いつも暴力を用いる共産主義に、ヒトラー主義は暴力で対抗しまし第た。共産主義に敵対する絶対的な敵、本質において共産主義に対抗した唯一の敵は国民社会主義だという意識が大衆の胸にはつねに強烈にきざみこまれました。人びとは、共産主義からドイツを救いたくて救いたいのはたしかですが――、国民社会主義にむかったのです。一九三二年の選挙で、ナチ党は、『国家のボリシェヴィキ化は共産党への一票から。自由ドイツの維持はナチ党への一票から』というスローガンをかかげました。

(M.マイヤー『彼らは自由だと思っていた』 未来社)
 

 

 ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した――しかし、それは遅すぎた。

(M.マイヤー『彼らは自由だと思っていた』 未来社)
 

 

 私たちはドイツで率直に申し上げますが1938年の末からこっち、シナゴーグ放火事件(※注)とその後の事件からあとは、人びとに事態をわからせようとすることをあきらめました。教師や、教えることだけに信念をもっていた人びとは、戦争の始まる前からもうあきらめていました。理解してもらえる余地や、理解させる能力がないし、事態がこのまま進行して、はじめに犠牲者が、つぎに体制の建設者が、そして、残った私たちが破滅するにちがいないことがわかっていたからです。だからといって、彼らが降参したわけではありません。彼らはエネルギーをたくわえていました。彼らは、現在犠牲になっている人たちの苦痛をやわらげるために(彼に町なかで『やあ』と堂々と声をかけることだったとしても!)、つぎの犠牲者が出ないようにくいとめるために、少なくともそれをひきのばすために(『政治ぬきの』手紙を外国に書きおくり、移民の引き受け手をたのみこむだけのことだったとしても!)、どんなに小さなことでも(なにかをしようとするにはもう遅すぎた以上)、そのことにエネルギーを注いだのです。
※シナゴーグ放火事件・・・・・シナゴーグとはユダヤ教の宗教施設のことである。1938年に行われたユダヤ人に対する大規模迫害「水晶の夜」においては、シナゴーグの焼き討ちが行われた。

(M.マイヤー『彼らは自由だと思っていた』 未来社)
 

 

風船を片手に持った、眼鏡をかけた女の子の写真です。

睨んでるような表情で、ぜんぜん可愛くないですよね~。

この子、女の子の恰好してますけど、本当は「男の子」なんですよ。

いったい、誰なんでしょうね???

ヒントは「コンピューター」です。

分かりませんかね???

 

正解は・・・・・

 

 

ビル=ゲイツです!

もっとも、本当にビル=ゲイツか分かりませんけどね~。

面影がある、といえばあるような気はしますが・・・・・。

ネット上のどこかで拾った画像なのですが、面白いと思ったので上げてみました。

それにしても、欧米のエリート層はなぜ男の子を女装させるのでしょうか???

一般的には、

 

「女の子のほうが病気に強いので、丈夫に育つように願をかけている。」

 

とされていますが・・・・・。

授業でもこの手を話をすることがあるのですが、本当のところどうなんでしょうね???

誰か「本当の理由」を知っている人はいませんか???

 

 

おまけ

第32代アメリカ大統領 フランクリン=ローズヴェルト

 

 

 

 ムレットはかつて山の老人が住んでいた地方である。ムレットはフランス語では「地上の神」を意味する(語源はアラビア語ムラヒド「異端者」で、イスラム教イスマイル派を指す。その本拠アラムートはカズビーンの近くだが、クヒスタンにも拠点があった)。・・・・・彼は土地の言葉でアロアディン(アラー・ウッディーン・マホメット)と呼ばれ、二つの山のあいだの谷間に、かつて見たこともないような、世界中のあらゆる果物が実る大きく美しい庭園を作り、その中に、これもかつて見たこともないような、金で飾りたてられた美しい家屋と宮殿を建てた。そこには、葡萄酒とミルクと蜜と水の豊かに流れる水路がしつらえられ、さらにこの世で最も美しい婦人と娘たちが大勢いて、あらゆる楽器を奏で、素晴らしい声で歌い、目にするだけでも喜ばしいほど上手に踊った。老人は、この庭園こそが楽園なのだと思わせた。マホメットによれば、楽園とは葡萄酒とミルクと蜜と水の流れに溢れ、悦楽をもたらす美しい女性たちに満ちた素晴らしい庭園なのであるが、老人はその通りにこの庭園を作ったのであり、人々もまたそれが楽園であると信じたのであった。彼は、暗殺者に仕立てようと思う男以外、誰一人として中に入れなかった。入口には城があって、誰も陥落できないほど堅固であったし、そこを通らなければこの庭園には入れなかった。老人は、戦士になるつもりのあるこの地方の一二歳の少年たちを宮殿に連れて来ては、マホメットが述べた楽園とはこれこれしかじかであると言って聞かせる。すると彼らはサラセン人が信じるように信じてしまうのである。この老人は少年たちを10人または6人または4人一緒にして庭園の中に連れ込むのだが、その際、あらかじめある飲み物を飲ませ、眠り込ませておく。それから庭園に連れ込むのだが、少年たちは目が覚めるとすでに庭園の中にいるという次第である。
 庭園の中で目を覚まし、これほど美しい場所にいることを知ると、少年たちは本当に楽園にいるのだと信じる。婦人たちや娘たちが常に思うさま慰めてくれるのである。少年たちはみずからの意志によっては、そこから決して出ようなどとはしないだろう。山の老人は宮殿を豪華で壮麗に維持し、周囲の単純な人々に自分が偉大な預言者であると思わせたし、人々も実際にそう信じた。そして、暗殺者をある場所に送り込む必要が生じると、庭園の中にいる誰かに例の飲み物を飲ませ、宮殿に連れて来させる。目が覚め、楽園の外の城の中にいるのを知ると、彼は非常に驚き、居心地の悪い思いをするのであるが、老人の前に呼ばれると、老人を真の預言者と思って平伏する。そこで老人がどこから来たのか尋ねると、彼は自分が楽園から来たと、また、その楽園はマホメットが教えの中で語っている通りであると答える。まだその楽園を見たことのないほかの者たちは、これを聞けばそこに行きたいと強く望むのである。ところで山の老人は、誰かある君主を殺したい時には、彼に向かって次のように言う「これこれの人物を殺しに行け。もし戻って来られたら、天使に言ってお前を楽園へ運ばせよう。もしお前が死んだとしても、天使に頼んでお前を楽園に戻してやろう」。老人は彼にこのように信じ込ませる。そこで彼は、楽園に戻りたいという強い欲求のために、どんな危険にもひるまず、老人の命令を実行するのである。このようにして、山の老人は命じた通りにあらゆる人物を殺害してきた。君主たちは老人に非常な恐れを抱いたので、平和と友好を求めて老人に貢ぎ物をした。
 

(月村辰雄、久保田勝一『マルコ・ポーロ 東方見聞録』 岩波書店)

 

 アンコールの地で都城建設が本格化するのは、九世紀末からだが、護国寺院アンコール・ワットを建立したのは、スールヤヴァルマン二世(在位1113~1150?)である。その後、アンコール都城は、1177年にチャンパーによって攻撃・占領されるが、このチャンパー軍を追い払ったジャヤヴァルマン七世(在位1181~1218?)は、新都城アンコール・トムと、その中心部に護国寺院バイヨンを建立した。この王のもとで、アンコール朝の支配領域は最大化し、北は今日のラオス中部、西は中部タイからマレー半島にまで及び、東でも一時的ではあるがチャンパーを併合した。王の40年近い治下では、仏教優遇政策がとられ、ヒンドゥー教寺院であったアンコール・ワットが仏教寺院として使用されるようになり、アンコール・トムのバイヨン寺院も仏教寺院として建立された。
しかし、その後、1243年に即位したジャヤヴァルマン八世は、ヒンドゥー教を重んじ、その治下では仏像を破壊する廃仏事件が発生した。こうした宗教抗争や、過剰な建設事業による疲弊、シャム人(現在のタイ人。20世紀の「タイ」という国号採用まではシャムと表記)の台頭などによって、王朝の勢力はしだいに衰えていく。14世紀半ば以降は、シャム人のアユタヤ朝による攻撃を受け、15世紀にはアンコールの都城を最終的に放棄することになった。
 アンコール朝の繁栄を支えた基盤は、アンコール地方の農業生産力だった。巨大な貯水池などの水利施設によって、12万6000トンの籾米の収穫が可能で、約60万人の人口を養うことが可能だったという研究もある。実際にも、アンコール都城周辺の人口は40~50万人に達していたといわれ、それを支えるだけの集約農業の基盤が存在していた。最大目ただ、アンコールの王位は安定したものではなく、802年から14世紀半ばまでに王となった26人のうち、8人だけが先王の実子または兄弟で、その他の王は、その個人のカリスマ性と実力で王位を獲得した人々で、先王との遠縁関係は信憑性の低いこじつけだった。血統に頼れず個人の力で王位を獲得した者にとっては、宗教的神聖性が重要な意味をもち、神格化された王として、新都城とその中心の国家鎮護の新寺院、王宮を建立する責務を負うことになった。前王たちより優れた建造物を造ってみせねば人々を服属させることができなかった、王位をめぐる激しい競争的環境が、アンコール朝の巨大建造物を生んだのである。
 

(古田元夫『東南アジア史10講』 岩波書店)

 

 ところでカイドゥ王にはアジアンという娘があった。これはタタール人の言葉(実はトルコ語)で「輝く月」を意味する。王女はたいへんに美しく、また力持ちで勇ましかったので、王国中をさがしても彼女を力で打ち負かすほどの男が見あたらないほどであった。何度試合をしてみても誰よりすさまじい力を示した。父王は彼女を結婚させようとしたが、彼女は望まず、自分を打ち負かす男があらわれるまで結婚しない、自分が夫とするのはまさにその男である、といった。彼女がそう望むのでカイドゥ王は、習わしに従い、娘がみずから望んだ男と好きな時に結婚する希望を許した。彼女は背が高く、骨格が豊かで、肉もついていたので、ほとんど巨人族の女と見まがうほどであった。彼女は諸国に手紙を送り、誰でも彼女と手合わせを願う男はやって来るがよい、ただし彼女が勝ったら100頭の馬をいただく、しかし打ち負かされたらその男の妻になる、と知らせた。それで貴族たちの息子が何人もやって来て彼女と試合をしたのだが、いずれも打ち負かされてしまい、王女はとうとう1000頭の馬を得るにいたった。
 1280年のことであった。ある強大な王の息子である一人の若者がやって来た。勇敢でたくましい若者であったが、王女との試合のことを耳にはさんだので、手合わせを望み、もし彼女を打ち負かしたら約束通り妻にしようと思ってやって来たのであった。若者は強く望んでいた。というのも王女がたいへんに美しかったからである。若者のほうも美しく、若々しく、勇敢で、力が強かった。父の王国ではどのような力比べをしても誰にも負けたためしがなかったので、勇ましくもやって来たのであった。彼は1000頭の馬を連れて来たが、もし負けたらすべてを彼女に進呈するつもりであった。いちどきに1000頭の馬というのは、たいへんな儲けである。しかし彼は自信を持っていたから、彼女をかんたんに我がものにできると信じていた。カイドゥ王と王女の母である王妃は王女に向かって、どうか打ち負かされてくれるように、あの若者は強大な王の息子で育ちもよいから、お前がその妻になるならたいへんに嬉しい、と懇願して聞かせた。すると王女は、むざむざ敗れるようなことは絶対にしない、しかしあの若者が力で自分を負かすのであれば、約束のことでもあり喜んで妻となる、そうでなければ結婚はしない、と答えるのであった。
申し合わせの日になって、人々はカイドゥ王の宮殿に集まった。王も王妃も臨席した。この試合を見物しようとやって来た人々が集まると、王女が絹織りの胴着に身をつつんであらわれた。ついで若者があらわれたが、これも絹織りの胴着を着用していた。すばらしい姿であった。二人は宮殿の中であいまみえると、腕を組み合い、あちらこちらへと押し合った。試合は長く続いたが、どちらも相手を打ち倒すことができなかった。しかし最後になって、勇ましい王女のほうが若者を足もとに投げ倒してしまったのである。若者は彼女の足もとに倒れ、おおいに恥じ入った。起き上がるやいな、お供の者たちを連れて父の王国へと去って行った。今まで自分にあらがいる相手などいなかったというのに、一人の乙女に打ち負かされてしまったのだ。彼はこの結果に恥じ入り、もだえ苦しみ、連れて来た1000頭の馬をそのまま残して立ち去った。カイドゥ王もその妻である王妃もこの結果を嘆き悲しんだ。若者がたいへんに強く美しく勇敢で気立てもよかったので、自分たちの娘を負かし、妻として娶ってくれたらと望んでいたからだ。それが不運な結果になってしまった。
 さて、王女のことであるが、この出来事の後、王は戦争が起こるとかならず娘を連れて行くようになった。王は彼女をともなうことを喜びとした。というのも、彼女ほどの武勲を上げる兵士がほかにいなかったからである。彼女はしばしば父王の陣営を抜け出すと敵の陣営に向かい、あたかも小鳥ででもあるかのように兵士を一人捕まえると、軽々と父王のもとに運んで来た。しかも、これがいつものことであったのだ。

 

(月村辰雄、久保田勝一『マルコ・ポーロ 東方見聞録』 岩波書店)

 

 ところで、帰れなくなることを恐れて船がけっして向かおうとしないこれらの南の島々(マダガスカル島、ザンジバル島)には、一年のうちのある季節、怪鳥グリフォンが出現すると伝えられている。この鳥は、私たちが考えているものとは異なっているそうで、それらの島々に実際に出かけ、グリフォンを見た人たちがマルコ殿に語ったところによれば、それは鷲に似ているが、度はずれて大きかったという。彼らの話によれば、全長は30パ(45メートル)ほど、翼の長12パ(18メートル)ほど。たいへんに強く、その脚で象を捕らえると空高く運び上げ、それを空中から落として殺すと、その上に舞降りて心ゆくまで肉を食べるそうである。それらの島の住人はこの鳥をわずかに「リュ」という名で呼んでいる。ほかにもこれほど大きな鳥がいるのか否か、また、これがほんとうにグリフォンという鳥なのか否か、私にはわからない。ただいえるのは、この鳥は私たちが想像しているのと異なり、下半身がライオンで、上半身が鷲の姿をしているわけではけっしてない、ということだ。とにかく強大で、まったく鷲に似ているのである。

 

(月村辰雄、久保田勝一『マルコ・ポーロ 東方見聞録』 岩波書店)

 

 

 サバング(日本国。他のフランス語写本でシパング)は東方の島で、大洋の中にある。大陸から1500マイル離れた大きな島で、住民 は肌の色が白く礼儀正しい。また、偶像崇拝者である。島では金が見つかるので、彼らは限りなく金を所有している。しかし大陸からあまりに離れているので、この島に向かう商人はほとんどおらず、そのため法外の量の金で溢れている。
この島の君主の宮殿について、私は一つ驚くべきことを語っておこう。その宮殿は、ちょうど私たちキリスト教国の教会が鉛で屋根をふくように、屋根がすべて純金で覆われているので、その価値はほとんど計り知れないほどである。床も二ドワ(約4センチメートル)の厚みのある金の板が敷きつめられ、窓もまた同様であるから、宮殿全体では、誰も想像することができないほどの並外れた富となる。また、この島には赤い鶏がたくさんいて、すこぶる美味である。多量の宝石も産する。
 さて、クビライ・カーンはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵をつけて派遣した。将軍の一人はアバタ(アラカン、阿刺罕)、もう一人はジョンサインチン(ファン・ウェン・フー、范文虎)といい、二人とも賢く勇敢であった。彼らはサルコン(泉州)とキンセー(杭州)の港から大洋に乗り出し、長い航海の末にこの島に至った。上陸するとすぐに平野と村落を占領したが、城や町は奪うことができなかった。さて、そこで不幸が彼らを襲う。凄まじい北風が吹いてこの島を荒らし回ったのである。島にはほとんど港というものがなく、風はきわめて強かったので、大カーンの船団はひとたまりもなかった。彼らはこのまま留まれば船がすべて失われてしまうと考え、島を離れた。しかし、少しばかり戻ったところに小島があり、船団はいやおうもなくこの小島にぶつかって破壊されてしまった。軍隊の大部分は滅び、わずかに三万人ほどが生き残ってこの小島に難を避けた。彼らには食料も援軍もなく、もはや命はないものと諦めざるをえなかった。というのも、何艘かの船がいちはやく彼らの国に帰ったのだが、いっこうに戻って来る気配がなかったからである。実は司令官である二人の将軍がたがいに憎み合い、そねみ合っていたのである。一人の将軍は嵐を逃れたのだが、小島に残された同僚の将軍の救援には赴こうとしなかった。大風は長く続かなかったので、吹き止んでしまえば戻ることは十分可能だったにもかかわらず、彼は戻ろうとせず、自分の国に帰ってしまった。大カーンの軍隊が残されたこの小島は人の住めるようなところではなく、彼ら以外に生き物の姿はなかった。
 

(月村辰雄、久保田勝一『マルコ・ポーロ 東方見聞録』 岩波書店)