この学校では、3年間お世話になりました。
離任するにあたって、皆さんに伝えておきたいことがあります。

皆さんはいま一生懸命勉強していますね?

皆さんは大学に行って、将来何になるのでしょうか?

医者でしょうか?

公務員でしょうか?

大学教授でしょうか?

それとも、政治家でしょうか?

人それぞれいろいろな夢があって、野望があると思います。

どんな夢であれ、野望であれ、自分の好きなようにやればいいと思います。

自分の好きなことをやるのが一番です。

なんとは言っても、人生は一度きりですからね。

それなのに、「好きなことばっかりやってるとダメ人間になる。」などと考えたり言ってきたりする人がいます。

そういう人は、よっぽど我慢して、自分のやりたいことをやってこなかった人なのでしょう。

こんなことは一教員である自分が、生徒である皆さんにあまり言っていいことではないかもしれませんが、あえて言わせてもらいます。

人間はいずれ死にます。

死なない人間はいません。

人間の死亡率は100%です。

欧米の超富裕層たちは不老不死を研究しているみたいですけどね。

まったく、無駄なことをしてご苦労なことです。

それはともかく、人間の価値はどれだけ長く生きたか、とかどれだけ知識を蓄えたか、とかそんなことで決まるものではありません。

どれだけ自分の好きなことをやって、自分の心と命を燃やすことができたか、です。

いずれ死を迎える、その時にやりたいことをやっておかないと、ものすごく後悔しますよ。

悔しい思いをしますよ。

そんなの嫌ですよね?

だから、皆さんは一生懸命学習に取り組んで、自分の好きなことをとことん突き詰めて、やり抜けるだけやり抜いてください。

まだ、自分の好きなことが何なのか分からない人は、テレビなんか見ないで、いろいろなジャンルの本を読んで、とことんまで自分は何が好きなのか探り当ててください。

私からは以上です。

 

・・・・・。

 

・・・・・。

 

・・・・・。

 

いや、離任せんけど。(笑)

 

「今年も騙された!ふざけんな!〇〇、■ね!」

 

っていう人は、必ずコメントを残してくださいね♡

image

 

はい、というわけで皆さん、お疲れ様でした。

2025年度3学期終了のお知らせでございます。

いやー、短かったんですねえ。

本当に短かった!

プッチ神父のスタンド攻撃の威力を、あらためて実感しております。

なんと、恐ろしい能力なんだ・・・・・。

おっそろしいなぁ・・・・・。

そりゃ、まぁ、スタプラザワールド持ちの空条承太郎だって、あっという間に〇されてもおかしくはないですね???

 

さて、そんなこんなで、よりいっそう殺伐として混沌としてきた、この頃ではありますが、皆さんもう「お目覚め」ですよね???

さすがに、もう「お目覚め」ですよね???

え?まだ「お目覚め」でない???

ほんの少し、認知不協和的な情報が入ってきただけで、脊髄反射的に「陰謀論者!」と他人をののしりまくるような羊人間(シープル)なのですか???

そりゃ、まぁ、そうですよね。

生まれてから、ずーっと、ずーっと、こんな理不尽で不条理な洗脳空間の「新世界秩序」のなかで生きてきたのですものね。

いきなり、どうこうなるものでもない、とさすがの私でもあきらめてきっております。

もはや、どーでもいいことですが、マスクは外しましょうね。

苦しいし、不潔だし、二重アゴになったり、酸欠で老化が早くなったり、ミトコンドリア活性が下がってガンになりやすくなったりするので、健康に良くないですから。

それはともかく、2026年はなんだか大変な年になりそうですね。

なにせ今年は「丙午(ひのえうま)」でございます。

「火の馬」というくらいですから、そりゃもう大変なエネルギーが高まる年であります。

ちょうど60年前の「丙午(ひのえうま)」の年、すなわち1966年には何がおこったのでしょうか???

 

・・・・・。

 

・・・・・。

 

・・・・・。

 

そうです、中国で「プロレタリア文化大革命」がはじまりました。

10年間におよぶ混乱の結果、1000万人以上の人々が〇害され、中国の伝統文化が破壊された、と言われています。

さーて、今年はいったい何がおこるのでしょうか???

ワクワクしてきましたねー。

ドキドキしてきましたねー。

私個人としては、毎日毎日楽しくて楽しくて仕方ありません。

さーて、来年度もいちどきりの人生、楽しんでまいりますか。

そんなわけで、皆さん引き続きよろしくお願いします。

 

 1307年に、マンディンゴの諸王のなかでもっとも有名な王が即位した。スンジャータの孫のマンサ・ムーサ)である。マリの名は彼の治世のあいだに、地中海世界、さらにはヨーロッパにまで知られるようになった。これはマンサ・ムーサの、伝説ともなったメッカ巡礼に負うところが大きく、彼のキャラバンの華麗なことと、それがひきおこした大評判は、その後長く、彼の名を高めた。マンサ・ムーサは1324年に、おびただしい従者と、黄金や贈り物を積みあげたラクダの隊列にかこまれて巡礼に旅立ち、ワラタ、トゥアトを経て、カイロに向かった。彼は、まことに見事な馬具をつけた馬に乗り、奴隷500名のそれぞれが金の延べ棒をかついで、彼のまえを進んだ。彼は莫大な黄金を用意して、行く先々でそれを贈り物とした。エジプトではあまりに大量の金が流通したので、その価値が落ちて、12年後にもまだ回復しなかったほどだと、マリについて記録をのこしたエジプトの官吏アル・オマリはこの有名な客について語っている。マンサ・ムーサは方正なイスラム教徒にふさわしく、貧者に物惜しみせず、また訪れたいくつもの聖地では、とくに多くの施物をおこなった。マンサ・ムーサの富と寛大さ、彼の従者たちの素朴な、礼儀正しい態度は、行く先々によい印象をうえつけ、彼のキャラバンの豪壮・華麗なさまは、のちのちまでも驚異とうわさ話のまとになった。
 帰途、マンサ・ムーサは、彼の将軍の一人がソンガイの首都ガオを攻略したことを聞き知り、この町を訪れてソンガイ王自らの降服を受理することに決めた。そして、命じたことをソンガイ王に確実に守らせるために、王の二人の息子を人質として、マリに連れもどった。マリの軍隊は、王が巡礼をおこなっているあいだも、無為にすごしてはいなかったのだ。マンサ・ムーサが帰国したとき、彼の王国は、西は大西洋から、東はタケッダの銅山まで、北はサハラ砂漠の南縁、南は金の産出地域までひろがっていた。
 それとともに、交易の繁栄はマリに富をもたらし、またそれまでのある期間、スーダンでおこなわれていた文化と学問もまた、マリで発展した。イスラム教徒の住民が居住したところではどこでも文化的な活動がおこなわれたらしいが、それは、必ずしもイスラム教徒住民の大部分を占めていたと思われる商人によってではなく、商人とともに住みついた法学者、学者、宗教家たちによってである。当時はアラブの学問にまさるものはなく、アラブ人の、ひろく世界について、またとくに隣人たちについての好奇心は、すでにのべたように、ひじょうに貴重な知識を私たちに与えてくれている。ここでいまあつかっている時代14世紀のはじめには、一団の学者・文学者・宗教的指導者、その他の人びとがトンブクトゥに住み、トンブクトゥは文化の中心地となっていた。
 

 

 今から千四百年も前の隋代に最初に科挙を行なった目的は、これによって前代の世襲的な貴族政治に打撃を与え、天子の独裁権力を確立するにあった。それ以前のいわゆる六朝時代(3世紀から6世紀まで)は貴族勢力の黄金時代であり、世上に特権的な貴族がはびこって中央、地方の官吏の地位を独占していた。この貴族政治はある点では日本の藤原時代に似ており、ある点では日本の封建時代にも似ている。もっとも、日本の藤原時代は藤原氏の一門が上層の官位を独り占めにしていたが、中国の六朝には世上に無数の貴族があり、それがおよそ4段階ぐらいにわかれてそれぞれの格式を守っていた。また封建制度下にあっては父が死ねば子がそのまま父の地位を継承するが、六朝の貴族はそうでなく、貴族子弟はその初任の地位と最後に到達しうる限界とが家格によっておおよそ定まっていただけで、子がいきなり父の死んだ時の地位を受けつぐことはなかった。これらの点で両者はちがっていたのである。
 しかしそういう状態だと天子の官吏任用権ははなはだ狭いものになり、才能によって人物を自由に登用することができない。もし天子が従来の慣例を破って人事を行なうと、貴族出身の官僚群から手ひどく反撃を食うのである。そこで隋の初代の文帝は内乱を平定して権勢の盛んなのを利用し、従来貴族がもっていた特権、貴族なるゆえに官吏になれるという権利をひと思いに抹殺してしまい、改めて試験を行なってそれに及第した者のみを官吏有資格者とし、多数の官僚予備軍を手もとに貯えておき、必要に応じて中央、地方の官吏の欠員を補充する制度を樹立したのである。これが中国における科挙の起原であった。


(宮崎市定『科挙』 中公新書)

 

 殿試はさすがに天子がみずから宮中で行なうというたてまえの試験なので、受験者の貢士も丁寧に扱われ、これまでの試験のように始めから非行学生扱いにされるようなことはなかった。特に、式部官や宦官などが出てきてお茶の接待をし、昼には食事を供給するなど、いままでとは雲泥(うんでい)の相異があった。また、御殿の中央はうす暗くて光線が十分でないので、太い柱のかげなどに位置した者が机を動かして窓ぎわへ持って行くことを見のがした。
 答案は日没までに書かねばならず、未完成のものは落第させられる。筆の遅い者は暗くなってもなかなか出来上がらないことがある。しかし貢士はここが最後のどたん場であるから、必死に答案にかじりついて離れないことはしばしばであった。
 1889年、広西省から出てきた張建勲という貢士は日没になってもまだあと半ページほどが出来上がらなかった。係員が行ってみると、出来上がったところまでは実に立派な答案である。あまり気の毒なので、その係員は机を戸外へ持ち出して軒下で書かせたところ、田舎者のこととて、すっかりあがってしまい、気が傾倒してしまったのか、やっと仕上げた最後の部分などは見るも無残な、しどろもどろの筆蹟であった。これでは到底だめだと思ったが、とにかく一応答案を完成したので、他の答案といっしょに纏(まと)めて審査員の方へまわした。すると、何とこれが第一番で及第したのである。
 前にも述べたように、この保和殿の奥まったところには、天子の坐る宝座がある。この試験には天子がみずから現われて、この宝座から受験者を監督せねばならないはずであるが、実際にはあまり勤勉に実行する天子は少なかった。特に清朝も末期になると、天子が殿試の場へ現われることがほとんどなくなってきた。そして天子が出なくなると、せっかく殿中で行なう試験も空気がたるんで厳粛を欠くようになった。荷かつぎの兵卒も一向に貢士を助けようとはせず、重い荷物をひきずって苦しんでいるのをただ傍観していただけだという。かえって古い昔の宋代などには天子自身が非常に熱心で、よく殿試の場へ現れたものである。

 

(宮崎市定『科挙』 中公新書)
 

 

 試験場で発病したり、意外の故障が起こったりするのは非常に不名誉なこととされている。それは日頃の素行が悪かったにちがいないからである。中国では道教思想が上下に広く行きわたっており、陰で善事を行なえば世間の人は知らなくてもいつかは神が福を授けてくれ、もし悪事を働いておれば必ず悪い報いがあると信ぜられていた。その因果応報の一番よく現われるのがほかならぬ試験場においてである。
 読書人が最も慎まねばならない悪徳は淫(いん)、女色である。というのは芸者狂いなどすることではなく、素人の女子の誇りを傷つけることである。そういう悪業を過去にもつ挙子は、ふだんはいかに頭がよく働いても、いざという時に必ず失敗する。ある挙子(※注1)は試験場で急に発狂して、しきりに「許してくれ、許してくれ」とさわぎ出した。答案の上を見ると文字は一つも書いてなくて、女の靴の絵が画いてあった。かつてこの挙子が貞操をおかしたために自殺した若い下女の亡霊が現われて、彼を苦しめ発狂させたのであった。
これに似た話は数多く語られている。そしてお化けの出るのは、主として郷試(※注2)の場合にかぎられているのも不思議である。郷試は貢院という、うす気味悪い場所で挙行されるのであるが、おそらく、挙子の入場後、ひとたび大門の扉がしめられると、試験終了まで絶対に二度とは開かれず、完全に内外が遮断されてその内部は全く外界から孤立してしまうからであろう。貢院内はいわば娑婆の世界をはなれて地方官の統治権も警察権も及ばぬ別世界である。そしてこの中だけが仇討ちが許される場所なので、そこをねらって幽霊やお化けが出没すると考えられたのである。清朝末年に出版された『勧戒録選』という書にこのような神怪談が多く語られている。

※注1:挙子・・・・・科挙を受ける人

※注2:郷試・・・・・科挙の第一段階の試験

 

(宮崎市定『科挙』 中公新書)
 

 

 朝は4時前に起床。これは雍正帝に限ったことでなく、がいして中国の習慣は早起きである。毎朝必ず先朝の歴史なる実録、及び詔勅集なる宝訓を一巻ずつよむ。宮門は4時に開き、6時は一般官吏の出勤時刻であり、大臣ならば宮中に参内せねばならぬ。故に天子は7時までに朝食を終り、これらの大臣を引見して政治を議する。特別に謁見を請う者があれば引続いて行うが、大ていは午後にのびるのが常である。もし時間に余裕があれば学者を召して経書や歴史の講義をさせる。朝が早いかわりに夜も早い習慣で、7時8時が就寝の時刻であるが、勤勉な雍正帝は多く夜の時間を地方の官吏から送ってよこす親展状なる奏摺(そうしゅう)を披閲(ひえつ)して、返事の諭旨(ゆし)を書きこむに忙しかった。毎日少(すくな)くも2、30通、多ければ5、60通に目を通さねばならぬ。
「朕は志を立てて自ら勤勉を行って天下を率いようと決心した。おおよそ大小の臣下から届けられる上奏文はことごとく自分で返事を書く。そんなことは出来そうにもないという人があるらしいが、日中は大臣と面接したり政務を指揮したりして非常に忙しく、心持もまた落ちつかないので、夜の時間をそれにあてることにしている。夜になるとあたりが静かで精神が集中されるから、地方から来た奏摺の親展状の十中八九は夜間に目をとおして返事を書く。この手紙もいま灯下で書いているところだ。何故かしらぬが、朕は幼時からの習慣で夜の方が落ちついていられる。」
「卿(おんみ)の報告はすこぶる長いが、何もいいわけする必要はない。いくら長くてもこのようなためになる報告ならば、読むのを楽しみにして疲れを忘れてしまう。数千字の長さの報告でも長すぎるからといって最後まで見ないことは一度もないのだ。君臣の間でそんな遠慮は無用である。」
「朕は特別に上出来の君主だとも自ら思わないが、そうかといって下等愚物な天子だとも思わない。この返事は灯下で書いたので字の形もしどろもどろだが笑ってくれるな。」・・・・・
 以上は雍正帝が地方官に与えた返書の中から拾った言葉であるが、これを見てもいかに彼が孜々(しし)として勤勉に政治にいそしんだかが窺(うかが)われよう。もし地方政治の急所にあたった意見ならば、何千字の長い上奏でも疲れることを忘れて読むが、もしいい加減な机上の作文を提出して責を塞ぐ官吏があると、雍正帝は癇癪(かんしゃく)玉を破裂させるのであった。
「朕は一日中、文書を見たり大臣等を指揮したりして非常に忙しいが、お前等の上奏文は始めから終りまで一字も残さずに読む。もし見たり見なかったりする位ならば何もお前たちから報告を取りよせはしない。だからお前たちの方でも朕の忙しさを察して、緊要なところだけを選んで簡単明瞭に書いて送れ。部下を使って机上の作文を造らせたり、何両何銭の細かい小づかい帳のような会計報告などは全くもって迷惑だ。」
「朕に対して聖人だの何のかのというお世辞の言葉は大嫌いだ。こんな下らぬ手紙は目を通すひまが惜しい。」
 

(宮崎市定『雍正帝』 中公文庫)

 

 1936年ごろが転換点だった。一般兵役義務が導入され、軍需がフル回転した。失業者が街頭から職場にもどり、炭鉱ではまた残業方がおこなわれるようになった。みんな仕事とパンをふたたび手にいれて喜んだ。恐慌時代の耐乏生活はおわりを告げた。人びとは、軍備拡大のために仕事をしているのを十分承知していた。デブのゲーリング自身が、「バターのかわりに大砲を」といっていた。しかしみんなは、ふたたび仕事をできるようになっただけで、うれしかった。4年、5年、6年にわたる失業を味わってきたから。たとえ悪魔のもとでも、個人的に働きはじめたであろう。しかし、多くの人びとは気がついていた。ナチスが戦争に向かってまっしぐらに進んでいることを。

 

(山本秀行『ナチズムの記憶』 ちくま学芸文庫)
 

 

 まず、第一に、「死の商人」は、大量の兵器をつくり、この特殊な「商品」を売り、巨額の利潤をつかまねばならない。まさに、「利潤第一!」というスローガンこそ、かれらの合ことばでなくてはならぬ。戦争は、この利潤獲得の手段にすぎないのだから、どっちが勝とうと負けようと、そんなことは、たいしたことではないのだ。「死の商人」の胸をときめかさせるのは、祖国愛でもなければ、戦争目的の正邪でもない。利潤以外には、かれらは、まったく不感症である。だから、かれらの前には、敵とか味方とかいう区別さえない。あるものは、「商品」の買手だけだ。
 20世紀が生んだ最大の皮肉屋の一人、バーナード・ショーは、こういう「死の商人」の属性を一人の劇中人物のなかに、みごとに描き出した。ショーの戯曲『バーバラ少佐』の主人公バーバラの父親アンダーシャフトは、兵器製造業者であるが、このアンダーシャフトが金科玉条としている信条はつぎのようなものである。
 「正当な代価を支払うものにたいしては、その買手がだれであろうと、買手の人物や主義主張にかかわりなく兵器を売る。貴族にであろうと共和主義者にであろうと、虚無主義者にであろうとツァーリにであろうと、資本家にだろうと社会主義者にだろうと、強盗にだろうと警官にだろうと、白人だろうが黒人だろうが黄色人種だろうが、あらゆる種類、あらゆる事情一切の信条、一切の愚行蛮行、一切の大義名分、一切の極悪におかまいなく、一切の民族、非道、何にたいしてでも正当な代金さえ貰えれば兵器を売るのだ」。
 実際は、まさか、これほどでもないだろう、と寛大な評価に傾く人々のために、有名無名の幾人かの「死の商人」の生まのことばを引きあいに出そう。たとえば、有名なダイナマイトの発明者であり、その発明品で巨利を博し「ダイナマイト王」とさえ呼ばれるに至ったアルフレッド・ノーベル――――このノーベルが遺言で「平和賞」をもふくめた「ノーベル賞」を制定し、その大量殺戮用商品の生産からあがった巨額の利潤をこれにあてたということは、古今東西をつうじて、最大のパラドックスであり皮肉である――――そのノーベルはこういっている「私は世界の市民である。私アルフレッド・ノーベルの『祖国』はどこかといえば、私が仕事をするところは、どこでも私の『祖国』だ。そして、私は、どこででも仕事をする」と。いいかえれば、ノーベルにとっては「祖国」はあるが、同時に、「祖国」はないのであった。

 

(岡倉古志郎『死の商人』 講談社学術文庫)