天智天皇山科陵(御廟野古墳)13(京都市右京区)24年7月24日

平安時代に編纂された法典『延喜式』には、「山科陵」として記載されており、これが天智天皇陵であるとする根拠の一つです。

考古学的調査では、御廟野古墳は八角墳であり、7世紀末〜8世紀に築造されたと考えられています。この形式は天皇陵に多く見られるため、天智天皇の陵である可能性は高いとされています 。
古代の天皇陵は埋葬者の特定が困難なものが多いのですが、この陵墓に関しては、『延喜諸陵式』に「山科陵 近江大津宮御宇天智天皇在山城国宇治郡 兆域東西十四町南北十四町 陵戸六烟」と記されており、近隣に大きな墳墓がないため異論が少ないのが特長。
『延喜諸陵式』(えんぎしょりょうしき)は、平安時代中期(927年)に編纂された『延喜式』の一部であり、朝廷が管理すべき陵墓について詳細に記した規定集です。これは、治部省の諸陵寮が管轄する陵墓の一覧をまとめたもので、天皇陵や皇族の墓の所在地、兆域(陵墓の範囲)、陵戸(管理を担当する戸数)などが記載されています。
『延喜諸陵式』には「兆域東西十四町南北十四町(約1500m四方)」とあり、現在よりかなり大きい土地を占めていたようです。 
このことからも、本古墳は、被葬者の実在性にも、天皇陵古墳に比定することにも問題がなく、つまり、「天智天皇陵」と呼称してもほぼ間違いのない古墳です。このような古墳は非常に稀であり、他には天武・持統合葬陵の野口王墓があるだけです。

ちなみに『万葉集』には額田王の艶歌が詠まれています。
「やすみしし わご大君の かしこきや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつ在りてや 百磯城(ももしき)の 大宮人は去き別れなむ」 は良く知られていています。 ![万葉集とは何かわかりやすく解説!作者や代表和歌・歌人も紹介 - レキシル[Rekisiru]](https://pds.exblog.jp/pds/1/201702/09/28/b0162728_19564522.jpg)
この御歌は、山科の鏡山に眠る天智天皇を偲び、昼も夜も涙に暮れる大宮人の慟哭を映したもの。風景の美しさに心を奪われるのはたやすいけれど、その地に宿る祈りと記憶にこそ、耳を澄ませたいものです。
名所とはただの景色ではなく、時を超えて語りかけてくる“声”を抱いた場所。山科の杜もまた、静かにその声を伝えているのです。


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