大塚美術館83
エドゥアール・マネ(1832–1883)はパリの裕福なブルジョワ家庭に生まれた。

父は法律家の道を望んだが、マネは中学時代から絵画に惹かれ、海軍兵学校の試験に2度失敗した後、芸術家の道を許される。

歴史画家トマ・クチュールに師事するも、伝統的な教育に飽き足らず、ルーヴル美術館での模写やヨーロッパ各地の旅行を通じて、ヴェネツィア派やスペイン絵画に学んだ。
1859年以降、サロン・ド・パリに出品を続け、1861年には
《スペインの歌手》で初入選。だが、ー理想化されたアカデミズム絵画とは異なる、現代パリの都市生活を平面的な色面と明確な輪郭で描く作風は、しばしば非難の的となった。
1863年、ナポレオン3世の命で開かれた落選展に出品した《草上の昼食》は、裸婦が着衣の男性と共に描かれたことから風紀を乱すとされ、大スキャンダルを巻き起こす。![]()
続く1865年の《オランピア》も、娼婦を正面から描いたことで
激しい批判を浴びた。失意のマネはスペインへ旅し、ベラスケスに深く影響を受ける。

その成果として描かれた《笛を吹く少年》は1866年のサロンで
落選するが、作家エミール・ゾラの擁護を受ける。
マネはバティニョール地区にアトリエを構え、カフェ・ゲルボワに集う芸術家たちと交流。ゾラや若きモネ、ルノワールらが集い、やがて「バティニョール派」と呼ばれるようになる。
1870年普仏戦争では国民軍に参加。戦後、印象派の若手がサロンから独立しグループ展をば始めるが、マネ自身はサロンでの成功を重視して、印象派展には参加しなかった。それでもモネとの親交は続き、戸外制作など印象派的手法も取り入れた。

晩年は梅毒に苦しみながらも制作を続け、1882年サロンに最後の大作《フォリー・ベルジェールのバー》を出品。翌年、左脚の壊疽により手術を受けるが、回復せず51歳で死去した。
死後、モネの御尽力で《オランピア》が国立美術館に収蔵され、カイユボットの遺贈により《バルコニー》も公的に認知されるようになる。保守派の反発は根強かったが、美術市場での評価は高まり近年では数十億円で落札される作品もある。

マネの油彩画は400点以上にものぼる。彼は保守的な市民階級に属しながらも、伝統的な遠近法や陰影にはとらわれず、現代社会の冷ややかな人間関係や娼婦の存在を率直に描いた。![]()
ヴェネツィア派やスペイン絵画、浮世絵などからも影響を受け、古典的主題を現代的文脈に置き換える手法を用いた。印象派の先駆として、またセザンヌやピカソら後世の画家たちに多大な影響をば与えた存在である。
マネは、サロンと革新のはざまで揺れながらも、近代絵画の扉を開いた画家として、今なおその存在感を放ち続けている。
そして舞台袖では、マネ本人が腕を組んでこちらを見ながら、こんなふうにツッコんでくる。
「ほらほら、オランピアに見つめられて固まってる場合ちゃうで。
あれは“裸婦像”やなくて、鑑賞者の度胸を測る“試験官”やからな」
その声が聞こえた気がして振り返ると、マネはニヤッと笑って、
「絵画の伝統? そんなん、ちょっとひっくり返したほうが面白いやろ」と、肩をすくめて消えていく。
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気づけば、作品を見ているつもりが、作品とマネの両方から“観察されている”のはこっちのほう。
美術館の静けさの中で、彼の軽妙なツッコミが、今もこだましているようやね。
































