ちょっとだけ歴史の勉強 | 柔道が足りてない!

柔道が足りてない!

昨今、柔道人口の減少が深刻みたいなので、皆様にちょっとでも興味を持って頂けるような柔道ネタなど書いて行ければと存じます。

柔道、正式名称「日本傳講道館柔道」は、嘉納治五郎師範が柔術の要素を取り入れて創始した武道である、という事は小生もふんわりと認識しておりますが、もうちょっとだけ詳しく勉強すべく、ググってみました。

嘉納治五郎師範の生誕は西暦1860年12月10日、出身は兵庫県神戸市の御影というところで、名家の三男として生を受けています。大河ドラマ「青天を衝け」で先週、桜田門外の変をやっていましたが、これが1860年3月の事件なので、大河を見ていると時代背景がイメージし易いかもしれません。


1870年(明治3年)に父と共に上京。大政奉還戊辰戦争の直後、江戸が東京に改称され、明治維新で時代が大きく動いている最中です。


その後、育英義塾(後の育英高校)→官立東京開成学校(後の東京大学)と進学。イメージ通りインテリだったんですね。

柔道に繋がる話としては、1877年(明治10年)頃、17歳ぐらいの時に天神真楊流柔術を習い始めています。西郷隆盛西南戦争を起こした頃の事です。


天神真楊流をYoutubeの動画で見ましたが、相手を絞め技や関節技で組み伏せたり、大外刈のように相手を倒して制する技術で、個人的には柔道の「極の形」に近い印象を受けました。


大学時代は、前述の大河ドラマ主役の渋沢栄一から経済学の講義を受けたり、逆に渋沢からの依頼で、当時来日中だったアメリカ大統領に柔術の演武を披露したりもしていたようです。


1881年(明治14年)に大学の文学部を卒業。天神真楊流の師が亡くなった後は、起倒流柔術を学び始めます。
柔道の「古式の形」は、起倒流の形を残したもので、現在の投げ技とはかなり異なる印象を受けますが、捨身技的な動きや一本背負投のような技も見られます。

 

柔道の極意とも言える「崩し」の概念は、この起倒流の乱取稽古の中で嘉納師範が発見したそうで、乱取稽古では現在の柔道により近い投げ技の攻防が行われていたのかもしれません。

そして翌1882年(明治15年)、起倒流を習う傍ら、23歳にして講道館を設立し、台東区東上野5丁目にある永昌寺に道場を構えるに至ったのです。当時、コレラが大流行していたとの事で、昨今のコロナ禍を連想してしまいます。


長くなりそうなので、講道館設立以降については、別途ググることに致します。