今週8日から、リオでパラリンピックが始まる。五輪が閉会したあとに同じ都市で開催される、今のような形のパラリンピックは1964年東京大会が嚆矢とされる。
ダイバーシティが尊重される国際社会の潮流から、障がい者の祭典パラリンピックが回を重ねる毎に盛大になっていくのは、私も結構なことだと思う。
昔はテレビでの実況中継など殆どなかったと記憶するが、今や五輪に準じてかなりの種目が中継される。
それだけにパラリンピックに出場する選手達はエリート・アスリートであり、車椅子などの器具には用具メーカーが最新のテクノロジーを競う場となっている。
従ってパラリンピックでメダルを獲得するのは並大抵のことではない。
或るパラリンピック種目の世界記録は、健常者の同種目の世界記録を上回るそうで、偏にテクノロジーの産物である。
もちろんアスリートの努力には敬意を表するものだが、どこか違和感を禁じ得ない。世界記録を樹立したのはアスリートなのか、それとも器具なのか?
器具の要素が大きいとすれば、サイボーグと同じではないのか?人間のスポーツとして決めるべきルールがあるのではないか。
また通常の五輪もそうだが、パラリンピックも商業主義の波に呑まれて、一部エリートとそれを支えるスポンサーのものと化しているのではないか。
一般の障がい者がリハビリから発展させて、自己実現を目指す、障がい者アマチュアスポーツの範疇から遠ざかっているように感じられる。
しかし今や綺麗事でメダルを取れないことは、パラリンピックだろうが五輪だろうが同じなのだろう。パラリンピックだからといってアマチュアリズムが主導している訳ではない。
スポーツビジネスの真っ只中で、名誉と富を追求する選手達に幸あれと祈りたい。
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