










カラーチェ兄弟、つまり二コラとラファエロの二人の名前が入ったラベルの付いた最上級仕様のマンドリンを入手しました。
製作年は1890年
1890年といえば、ラファエロが27歳、二コラが31歳くらいで、マンドリンの製作技術も一人前になったあたりで、マンドリン製作に情熱を燃やしていたに違いない時期です。その頃の最上級仕様の楽器です。
ヘッドとネックには全面に鼈甲が貼られています。リブはもちろん彫り込み、しかも銀線がリブとリブの間に挟まれています。表板の周りに鼈甲と真珠貝が交互に並び、さらにその内側に銀線のパフリングがあります。サウンドホールの周りはロゼッタだけでなく、これまた銀線も囲います。さらに胴内部は銀箔で覆われています。文句なしの最上級仕様で、このような仕様のものはこの頃のVinacciaでも見られます。実際この楽器と私が今まで所有している銀線入り彫りこみVinacciaの胴部分の飾り板の形や仕上げはそっくりです。Vinacciaをお手本として作ったのでしょう。表板の厚さも後世のラファエロのものに比べて薄く、これもこの当時のVinacciaに近いです。
二人力合わせて、Vinaccia兄弟に肩を並べる楽器を作りたかったのでしょう。そんな気がします。
この当時はまだ二人も若く、工房にはお抱えの職人がいなかったか、いても僅かだったでしょう。普及モデルとは違い、上級モデルでもあり実際に二人共直接製作に携わった可能性が高いでしょう。そういう意味からも貴重なものです。
仲良く二人で工房で仕事をしていた彼らが目に浮かびます。しかし、、、、
この楽器を作ってから10年後、20世紀に入ったあたりから兄弟のラベルが付いた楽器はほとんど製作されなくなります。逆にニコロ単独、ラファエロ単独での楽器が見られ始めます。二人は仲たがいしたのです。
10年後という事は、ラファエロは30代後半、演奏家や作曲家としても力を付け、世間に評価され、楽器製作の面でも自分一人だけの実力を評価されたかったのでしょうか。ラベルに自分の写真を入れてしまうくらいの人です。自己顕示欲が非常に強い人だったと思います。兄と一緒に仕事をし、二人のラベルにするのは面白くなかったに違いありません。おとなしく平凡な弟だったら、Vinaccia兄弟のように長く続いたでしょう。しかし、ラファエロは凡人でなく天才だったのです。優秀な弟を持った兄の悲劇でしょうか、1903年兄二コラは工房のあるナポリから離れ、さらにイタリアからも離れ渡米します。イタリアだけでなく欧州にいると弟と比較されてしまうという想いもあったのでしょうか。
父のアントニオが亡くなった時はラファエロ13歳、二コラ17歳でした。だから、父の亡き後は、父親代わりに弟の面倒を見たに違いありません。そういう兄にラファエロは一面では尊敬もしていたはずです。二コラが渡米後のラファエロの楽器には二コラの作った楽器に似たものがあります。また演奏家の伊丹さん所有の二コラの楽器はNo13~No16モデルのラファエロの楽器を彷彿とさせる形であり、二コラを優れた製作家として認めていた証と思います。(伊丹さんホームページ参照http://noriko-mnd.com/inst/nicola/nicola.htm)
いずれにせよ、この楽器は当時まだ仲が良かった二人が力を合わせて作りあげた力作であると思います。