オールドマンドリンに興味を示す人も、ぼちぼち多くなってきた
ように思う。やはり、昔の姿に立ち返り、当時の音楽を楽しむの
はいい事だ。
ただ、それだけでは面白みがない。
古い楽器で、新しい音楽をやってみたり、新しい楽器で古い音楽
をやってみたりしてもいい。音楽のような再現芸術は、そういう
ものだ。古い姿に立ち戻るのも一つの道。古いものに新しい息吹
を与えるのも一つの道だと思う。
作曲当時のままの楽器にこだわる人もいるけれど。この楽器でや
ってみるという信念があれば、どの楽器を使ってもいいと思いま
す。作曲者が意図しなかった効果が出る場合もあるでしょう。
グレングルードの弾くバッハなんて典型的な例です。
まあお金があれば、御三家だの、古い17世紀18世紀のマンド
リンだの揃えて、作曲された当時にままのスタイルで試してみて
も面白いかもしれないけれど。当時の作曲者の意図に近い音楽に
なるというだけ。それ以上のものは望めないでしょ?
(厳密に言うと、ピッチとか弦の素材とかの問題もあり、当時の
本当のスタイルになるかも疑わしいのですが)
大事なのは、この曲では、こういう音を出すんだという意思が先
決です。それがなければ、どんな高価な楽器があっても無駄な事
なのです。
たとえば、ムニエルの曲を弾こうとする演奏家2人がいたとする。
一人は、Calaceのクラシコで弾くのがベストと思いクラシコで演奏
した。
もう一人はある巨匠の言葉を信じて、Vinacciaで弾いた。
(ご存知の方もいるでしょうがムニエルはVinacciaの親戚です)
演奏家の考えが反映された前者の方が新鮮でよい演奏になると思
います。
それにクラシコで弾いたが、思ったようでなかったので、落合に
変えてみるというような選択肢も出て、よりよいものになるはず
です。後者にはそれがなく、そこで止まってしまいます。
他人の受け売りでなく、自分で主体的に考え、この曲なら、この
楽器というように考えるべきなのです。楽器が曲や作曲家を選ぶ
訳ではありません。この曲ならこの楽器が合うだろうと演奏家が
仮説を立てて演奏し検証するのです。
楽器店内での「巨匠」の言葉には要注意です。
話半分に聞いてないと、、、
一つの演奏会で何本もの楽器が必要になりますよ。
ここまで話せば、マンドリン愛好家の方なら、何に対してか分かる
と思います。著作権の関係で詳しくは言えませんが。
全ての時代の音楽をピアニストやバイオリニストはたった一台の楽器
で演奏していますよ。こちらもありえない事なのでしょうかね?
演奏家がこの楽器で表現してみるという強い決意があれば、どんな楽
器を使おうが、人を感動させられると思いますよ。
何事も権威者の言葉に惑わされず、自ら主体的に考えていく事が大切
だと、この歳になり感じる次第です。
どうせ楽器店内での巨匠の言葉、無視してもと思いましたが、合点が
いかないので、記事にした次第です。
まあ、巨匠の話なのだから、それなりの根拠もあるのでしょうが、あく
まで判断し実行するのは演奏家自身である事を忘れず、自らの感性を信
じ、演奏する曲にふさわしい楽器を自ら選択するべきなのです。
<12月26日追記>
昔の作曲家は同時に演奏家であったから、自分の愛器で演奏する事を
前提に作曲したであろう事は十分推測できる。しかし、それと同じ製
作家の楽器で弾くべきだというのは筋違いだと思う。
作曲家は、自分の愛器よりより良く表現できる楽器なら、そちらを勧
めるはずだ。そうでなければ音楽家ではない。
自分の曲を誰かが見事に弾くのを見て、「君の腕も、この楽器も素晴
らしいね!」と素直に言うのではないか?
「巨匠」の師匠アネダは、クラシコでなくエンベルガーで見事なカラー
チェ前奏曲を弾きました。これなんかまさに当てはまると思いますよ。
製作家の立場で考えるとどうだろう。どんな作曲家のものでも、オー
ルマイティに表現できる楽器を目指しているのではないか?古い曲も
作曲されたばかりの現代曲も見事に表現できる楽器を作ろうとしてい
るはず。作曲家の誰々さん用の楽器なんてありえないでしょ。
少なくとも19世紀、パスカーレビナチャが今あるようなマンドリン
の基本形を作ってから、作曲されたものは、カラーチェであろうが、
ラリエリであろうが、ムニエルであろうが、自由に楽器を選択してか
まわないと思います。
ただ楽器の選択も、演奏技術の一部かもしれません。他の人の演奏を
聴いていると、そんな気がします。
プロアマ問わず、演奏会で最初から最後まで同じ楽器一本で演奏する
ケースが多いのだけれど、二本くらい用意して曲に応じて変える事は
大いにやってもいいと思います。その方が、聴衆も飽きません。特に
独奏や少人数の場合は、そうですね。
<1月1日追記>
誤解されないよう補足しますが、私は作曲家が愛用していた製作家の
楽器を使用し、当時のスタイルで、その作曲家の作品を演奏する事自体
には反対しません。そうする事によって、その曲の原点と言える状態の
曲を聴く事が出来、原点に立ち戻る事ができるかもしれません。
(ただ、ピッチや弦、ピック等当時とは同じものにはなりませんから、
完全とは言えないのですが)
そういう意味では肯定します。
しかし、作曲家は自分の愛器に満足していたのでしょうか?
完全に満足していたなら、上のスタイルでやるのが、最高の演奏でしょ
う。でも、はっきり言ってそれは誰にも分からない。
現代に生きる我々が試行錯誤して探るしかないのです。
私が思うに、製作家でもあったCalacaでさえ、クラシコでは自分の前奏
曲は満足に演奏できない部分があると感じていたのではないでしょうか?
完全を求める芸術家にとって、これで満足という事はありえないと思う
のです。
ましておじさんの楽器をムニエルが最高だと思っていたか?
ラニエリも、もっとEmbergherに求めたいものがあったのでは?
覚めた目で見れば、こういう事なのではないでしょうか?
ように思う。やはり、昔の姿に立ち返り、当時の音楽を楽しむの
はいい事だ。
ただ、それだけでは面白みがない。
古い楽器で、新しい音楽をやってみたり、新しい楽器で古い音楽
をやってみたりしてもいい。音楽のような再現芸術は、そういう
ものだ。古い姿に立ち戻るのも一つの道。古いものに新しい息吹
を与えるのも一つの道だと思う。
作曲当時のままの楽器にこだわる人もいるけれど。この楽器でや
ってみるという信念があれば、どの楽器を使ってもいいと思いま
す。作曲者が意図しなかった効果が出る場合もあるでしょう。
グレングルードの弾くバッハなんて典型的な例です。
まあお金があれば、御三家だの、古い17世紀18世紀のマンド
リンだの揃えて、作曲された当時にままのスタイルで試してみて
も面白いかもしれないけれど。当時の作曲者の意図に近い音楽に
なるというだけ。それ以上のものは望めないでしょ?
(厳密に言うと、ピッチとか弦の素材とかの問題もあり、当時の
本当のスタイルになるかも疑わしいのですが)
大事なのは、この曲では、こういう音を出すんだという意思が先
決です。それがなければ、どんな高価な楽器があっても無駄な事
なのです。
たとえば、ムニエルの曲を弾こうとする演奏家2人がいたとする。
一人は、Calaceのクラシコで弾くのがベストと思いクラシコで演奏
した。
もう一人はある巨匠の言葉を信じて、Vinacciaで弾いた。
(ご存知の方もいるでしょうがムニエルはVinacciaの親戚です)
演奏家の考えが反映された前者の方が新鮮でよい演奏になると思
います。
それにクラシコで弾いたが、思ったようでなかったので、落合に
変えてみるというような選択肢も出て、よりよいものになるはず
です。後者にはそれがなく、そこで止まってしまいます。
他人の受け売りでなく、自分で主体的に考え、この曲なら、この
楽器というように考えるべきなのです。楽器が曲や作曲家を選ぶ
訳ではありません。この曲ならこの楽器が合うだろうと演奏家が
仮説を立てて演奏し検証するのです。
楽器店内での「巨匠」の言葉には要注意です。
話半分に聞いてないと、、、
一つの演奏会で何本もの楽器が必要になりますよ。
ここまで話せば、マンドリン愛好家の方なら、何に対してか分かる
と思います。著作権の関係で詳しくは言えませんが。
全ての時代の音楽をピアニストやバイオリニストはたった一台の楽器
で演奏していますよ。こちらもありえない事なのでしょうかね?
演奏家がこの楽器で表現してみるという強い決意があれば、どんな楽
器を使おうが、人を感動させられると思いますよ。
何事も権威者の言葉に惑わされず、自ら主体的に考えていく事が大切
だと、この歳になり感じる次第です。
どうせ楽器店内での巨匠の言葉、無視してもと思いましたが、合点が
いかないので、記事にした次第です。
まあ、巨匠の話なのだから、それなりの根拠もあるのでしょうが、あく
まで判断し実行するのは演奏家自身である事を忘れず、自らの感性を信
じ、演奏する曲にふさわしい楽器を自ら選択するべきなのです。
<12月26日追記>
昔の作曲家は同時に演奏家であったから、自分の愛器で演奏する事を
前提に作曲したであろう事は十分推測できる。しかし、それと同じ製
作家の楽器で弾くべきだというのは筋違いだと思う。
作曲家は、自分の愛器よりより良く表現できる楽器なら、そちらを勧
めるはずだ。そうでなければ音楽家ではない。
自分の曲を誰かが見事に弾くのを見て、「君の腕も、この楽器も素晴
らしいね!」と素直に言うのではないか?
「巨匠」の師匠アネダは、クラシコでなくエンベルガーで見事なカラー
チェ前奏曲を弾きました。これなんかまさに当てはまると思いますよ。
製作家の立場で考えるとどうだろう。どんな作曲家のものでも、オー
ルマイティに表現できる楽器を目指しているのではないか?古い曲も
作曲されたばかりの現代曲も見事に表現できる楽器を作ろうとしてい
るはず。作曲家の誰々さん用の楽器なんてありえないでしょ。
少なくとも19世紀、パスカーレビナチャが今あるようなマンドリン
の基本形を作ってから、作曲されたものは、カラーチェであろうが、
ラリエリであろうが、ムニエルであろうが、自由に楽器を選択してか
まわないと思います。
ただ楽器の選択も、演奏技術の一部かもしれません。他の人の演奏を
聴いていると、そんな気がします。
プロアマ問わず、演奏会で最初から最後まで同じ楽器一本で演奏する
ケースが多いのだけれど、二本くらい用意して曲に応じて変える事は
大いにやってもいいと思います。その方が、聴衆も飽きません。特に
独奏や少人数の場合は、そうですね。
<1月1日追記>
誤解されないよう補足しますが、私は作曲家が愛用していた製作家の
楽器を使用し、当時のスタイルで、その作曲家の作品を演奏する事自体
には反対しません。そうする事によって、その曲の原点と言える状態の
曲を聴く事が出来、原点に立ち戻る事ができるかもしれません。
(ただ、ピッチや弦、ピック等当時とは同じものにはなりませんから、
完全とは言えないのですが)
そういう意味では肯定します。
しかし、作曲家は自分の愛器に満足していたのでしょうか?
完全に満足していたなら、上のスタイルでやるのが、最高の演奏でしょ
う。でも、はっきり言ってそれは誰にも分からない。
現代に生きる我々が試行錯誤して探るしかないのです。
私が思うに、製作家でもあったCalacaでさえ、クラシコでは自分の前奏
曲は満足に演奏できない部分があると感じていたのではないでしょうか?
完全を求める芸術家にとって、これで満足という事はありえないと思う
のです。
ましておじさんの楽器をムニエルが最高だと思っていたか?
ラニエリも、もっとEmbergherに求めたいものがあったのでは?
覚めた目で見れば、こういう事なのではないでしょうか?