屁のない処に御国はたたぬという駄洒落だけのブログ -2ページ目

胃の中の二人(第2話)

ー真っ暗なクジラの胃の中で、文字通り暗中模索する人形と老人。
 果たして二人に明日は来るのか…

ぺ「…あっ!セットじいさんがいない!
  ゼットじいさーん!ゼットじいさあん!」
ゼ「…(もぐもぐ)どうしたんだい、ペノキオ(もぐもぐ)」
ぺ「ああ、よかった。もう消化されたのかと思ったよ。
  どこに行っていたの?」
ゼ「(もぐもぐ)いやなに、この辺はもう食べる所が
  無くなってきたからね。奥の方まで探しにいってたんだよ」
ぺ「…そういえば、こころなしか広くなってるなあ、ココ」
ゼ「もうそろそろ引っ越しを考えないとなあ」
ぺ「でも、外へ出ても辛い現実が待っているだけだよ」
ゼ「私は文無し老人、お前は人形だものなあ…」
ぺ「せめて僕が人間の子供だったら…」
ゼ「すまないペノキオ。私がお前を作ったばかりに、
  お前に辛い思いばかりさせて」
ぺ「なに言ってるんだよ、ゼットじいさん!ゼットじいさんが
  作ってくれなかったら、今の僕はないんだよ!
  トテモ感謝シテイマス(ニョキ)」
ゼ「!?ペノキオ、お前」
ぺ「アア、知ラナイウチニ身体ガ溶ケテキテル」
ゼ「ペノキオ!…
  ……木材も消化できるんだ…」
ぺ「て、おい!新しい発見に僕の死は及ばないのですか!」
ゼ「うん!!」
ぺ「うわ、びっくりした。急に元気よくなったね」
ゼ「…ペノキオ、現実を受け止めるんだ。
  外の世界は確かにしんどい所さ。差別や欺瞞が溢れてる。
  だけど、溶けるふりして逃げちゃあいけない。
  お前は人として人並みに扱ってもらえないだろうし
  不公平な社会で不公平に生きなきゃならない。
  争いごとも絶えないだろう。人が人を殺すんだ。
  誰かが少し他人を思いやらないばかりに、
  どこかで誰かが飢えて死ぬ。
  領土だなんだと言って言い争っては、見えもしない
  国境線を理由に憎しみ合う。
  心に国境線を引いてしまって、やれ愛国だやれ戦争だ、
  通じ合えないのは言葉が分からないからじゃないんだ、
  相手を本当に見ようとしていないからなんだ」
ぺ「…zzz…むにゃむにゃ…zzz」
ゼ「ペノキオ……」

ーこうしてこの夜、ペノキオはゼットじいさんの為に焚き火の材料になりました(ニョキ)

つづく

ドラえゴん

お前のモノは俺のモノ、俺のモノは俺のモノ。
野比のカタキ役である剛田武は常日頃その主人公に対して暴力を繰り返しているが、なぜ映画で友情らしきものを見せるだけで贖罪されたかのように視聴者から反感も買わず、またのうのうと毎週金曜19時に帰っていけるのか。そこにはドラえもん世界で言う「いじめっ子」と現実世界での「いじめっ子」の間にある違いが関係している。
現実世界でのいじめっ子と言えば、無視をしたりカツアゲしたりという、相手への攻撃を目的としたものを指す。しかしF不二雄が描いたいじめっ子は、自分の事だけしか考えられない自己中心的で不器用な人物・剛田武だったのである。野比をいじめようとしていじめている訳ではなく、剛田本人の目的を達成する為に野比を犠牲にしてしまうという、ある種のエゴイストとして描かれている彼は、母親や妹に弱いという人間的な面も見せており、その点が憎めないアイツ感を醸す因子にもなっているのだろう。
アニメがリニューアルして、野比や剛田たちの信頼関係はまた一から築いてゆかなければならないが、これは時間が解決してくれるだろう。面倒であればタイムマシンで明るい未来まで進めばいい。

野比「ドラえもん。もし君が来なければ、僕はジャイ子さんと
   結婚していたんだよねえ」
ドラ「そうだよ」
野比「でももし、君が未来から来る事が用意されていた事なの
   だとしたら、はじめからジャイ子さんと結婚する僕は
   存在しなかった事になるんじゃないかな」
ドラ「タイムパラドクス…」
野比「…ドラえもん?どうしたのドラえもん!」

ある日、のび太はその猫型ロボットの話に大きな矛盾をみつけた。でもそれは触れてはいけない部分だったんだ。。。

温ライン

オンライン。
今の日本で誰かと情報交換をする時、手段の一つとして使用されるインターネットや携帯電話。最近ではコレラの発達が著しく腹痛にて候、もとい、これら(電子機器)の発達により速やかな情報交換が行われるようになりました(それは私がこうしてウェブログできることからも)。
さあ、そんなこんなで通信している時それは「オンライン」であるとか言われるのですが、確かに電話線や光ファイバーを介しているので言葉として「オンライン」は間違いではないでしょう。しかし私は電子機器による誰かとの通信がオンラインなどと呼ばれることが悲しい。さて、なぜ悲しいでしょうか(三択)。

 (1) ポール牧が死んだから
 (2) 一瞬、ルー大柴が死んだかと思ったから
 (3) オンラインは言葉ばかりがつながっていて、心が繋がってないように思うのです。“離れていても二人は一緒”と言えても、絆がそれ以上強くなることは稀です。彼方とオフラインになってしまっては悲しい。駅前で待ち合わせ、手を繋いで二人がオンラインになれば伝わるモノも多いでしょう。つまり心のオンラインがないと悲しいですよということ。

正解は(1)番、ポール牧が死んだから。でした。
ポールマッカートニーと関係ない彼が死んだ理由を知ることはできませんが、御冥福をお祈りします。 「怨ライン」になりませんように。

胃の中の二人

ー(社会という)大海原に漕ぎ出したペノキオ。
 彼を待っていたのは大きなクジラ(現実)だった。

ぺ「…はっ!?ここは?」
ゼ「目が覚めたんだね、ペノキオや」
ぺ「ゼットじいさん!!生きていたんだね」
ゼ「もう、お前には会えないと思っていたよ」
ぺ「よかった無事で。。。ここはドコ?」
ゼ「世界の中心だよ(ニョキ)」
ぺ「自分という世界のね」
 「そっかあ、僕たちクジラに飲み込まれたんだね」
ゼ「私たちの主観で言えばね」
ぺ「ゼットじいさんがいなくなってから、
  僕ずっと探してたんだ(ニョキ)。ずっとここに?」
ゼ「ああそうだよ」
 「はじめはもっと早く消化されると思っていたんだが、
  いや、まさか1ヶ月も生き延びれるなんて」
ぺ「はっ!まさかゼットじいさん、クジラの。。。」
ゼ「内側から鯨肉を食べていたおかげだよ」
ぺ「なんてことヲ!クジラが可哀想じゃないカ!(ニョキ)」
ゼ「内側から鯨肉を食べていたおかげだよ」
ぺ「捕鯨はんたーい(ニョキ)」
ゼ「おや?ペノキオ、携帯電話鳴ってるよ」
ぺ「あっ本当だ。…はい、もしもし。ノキ男ですが…
  …はい、わかりましたお願いします。失礼しまーす」
 「ゼットじいさん、そろそろ行かなきゃ」
ゼ「今日もデモに行くのかい?」
ぺ「あいつらが、自分たちの間違いを正さないんだ(ニョキ)
  だから投げてくるよ。歴史という名の石もとい意思を」
ゼ「お前みたいな木偶の坊に何が出来ると言うんだ」
ぺ「うわあ、おじいさん!それ比喩になってないよお」

ーこうして人形と老人の一日は過ぎてゆくのでした。
 本日の鼻の伸び ペノキオ/5センチ
         ゼットじいさん/1センチ
 本日の被害状況 クジラ一頭
         大使館一棟
         人形のプライド

朝のポエム(NTV)

JR山手線神田駅ホーム。通り過ぎていく電車に向かって「ガガガ!ゴゴゴ!」と叫んでいる中年男性。当然、周りの人々は見て見ぬ振りをする。そう、みんなは知っているのだ。彼が“叫ぶ詩人”であることを。彼ら(といっても本物は初めて見たが)は、ドリアン助川(注1)がお薬の勢いで詩を叫んでいるのと違い、「詩とは今そこにリアルタイムで存在する」と言うモダンポエミズムの考えを持った今に生きる詩人なのだ。外世界と自らの曖昧な境界線に存在する、または発生する思いや何かのエネルギーを、声という手段で表現しているアーティストと言っていい。いい筈がない。ただ単に精神を病んでいるか、頭のつくりが違う人だね(狂っているとは書けない)。
街を歩いているとたまに見かけるそんな人を、たいていの他人は奇異の眼で見ている。しかし現代日本社会が教育によって個人それぞれに求めてきた個性の確立のことを思うと、おや、何だろう。(個性に関しての解釈は自由ですが)社会に個性というモノを求められ、自らも個性を欲しながら生活しているのにどうして彼(詩人)を変人扱いするのか。個人が欲しいのは個性ではないのかもしれない。見た目や行動に独特のものを持つというのなら彼(詩人)は立派に個性を持ってる。強いて言えば社会が個人に求めている個性はこれに似ている。一方、個人で言えば個性というよりもアイデンティティーを欲する個別主義的な考えがあるのだと思う。もちろんそれは集団在ってこそのものだから、人々は無自覚に集団の中に在り、無意識にその場所に安心しながら、しているが故に個を求める(余裕がある)のだろう。
なんてことを考えていると電車に乗り遅れそうになって、ドアに挟まる。自意識の固まりである私の恥ずかしさは山手線内回りを一周し、秋葉原で総武線に乗り換えた。
夕方のワイドショーで“隣人への1年半にわたる騒音による迷惑行為”で逮捕された女性のことが取りあげられていた。公衆向けコメンテーターたちは一般常識と言う範囲の中でコメントをするのが仕事なので皆、彼女(容疑者)に対して「信じられない」とか「何故そこまでやるのか」といったことを言う。法治国家に生きる人間として、他人に迷惑をかけたり嫌がる事をすれば当然、怒られるしたたかれる。
しかし、彼女がただの犯罪者であるというのは多数社会からみた一側面でしかない。
たまたま、被害者が一般的考えの持ち主だっただけで、もし例えば被害者が叫ぶ詩人だった場合「隣の芸術家のパフォーマンスが最近過激すぎる」という理由で届けられ、もしかすれば逮捕されなかったかもしれない。物事を考える時、そこには主観や思想といった基準みたいなものが必要になる。しかし、その事に無自覚になりすぎると世界を見る眼はピンホール程になってしまう。彼女も叫ぶ詩人である事を知る人は少ない。というかいない。というか彼女は叫ぶ詩人ではない。ただイライラでキレたんだね。
眼を閉じて私の世界の広がりを感じようとしていると、降りるべき駅を乗り過ごす。疲弊した私の悲しみは果てしなく高尾方面、乗り換えの電車は地平の向こう青梅方面未だ来ない。


 (注1=“叫ぶ詩人の会”の人)

数の行方

野球というスポーツに「サヨナラ」という言葉があります。9回裏に攻撃側が勝ち越し、もしくは逆転をした時に勝敗が決したということで試合終了になる事を指すのですが、さて野球は3つのアウトを取られると攻守が交替します。しかしサヨナラゲームになってしまった時、9回裏に取られる筈だった残りのアウト達は何処へ行ってしまったのでしょうか。
私がまだ幼い頃、両親に連れて行ってもらったプロ野球の試合。試合後に遅くまで残っているとよく“取られなかったアウト回収業”のおじさんがやって来て、待っている僕に「これが今日、若田部が取り損なったアウトや」と言って取られなかったアウトを見せてくれたものです。
少し前、スマトラ沖地震による津波の被害を伝えるニュースがメディアを騒がせていました。行ったこともない遠い土地での津波が人々を攫ったらしいのですが、その時見た新聞記事の見出しに「死者・行方不明者29万人に」とあり記事を詳しく読むと「約29万7千人」とも刷いてありました。私にはその数の大きさがうまく理解できません。
私はしばしば情報というものを自分の実感に置き換えられず悩みます。仕方のないことでもあるのですが、記事から見出しの間に消えてしまった「約7千人」は何処へ行ってしまったのだろう、とも考えます。時間が過ぎてどこかの人気者の訃報がニュースを独り占めにする頃、あの「約7千人」はもう数えてはもらえないのでしょうか。
今日は就職活動で会社説明会に行ったのですが、会場では皆がスーツを着ていて黒い固まりの一部になった自分が笑えました。友人と別れた家路の途中、そういえば今日までいくつの「さよなら」を交わしてきたのかと、幾枚散ったかも判らない桜並木で想うのでした。

 桜散る
  チルチルミチル
   城みちる
    花粉吸い込む
     ちり紙満ちる 

世界の車窓から見えるもの

赤信号、皆で渡れば怖くない。大使館、皆でデモれば怖くない。
新聞に日本大使館へ投石をしている一中国人民の写真が載っていました。彼はどう見ても60歳には見えません(戦中の人ではない)。ではなぜ彼は石を投げたのでしょう。
私たちは「歴史」というものに関して時に大きな勘違いをしてしまうようです。私たちの生きている世界には時間が在り、私が生きていなかった頃にも時間が在りました。私が生まれる前、戦争が起こり戦争が終わったのです。とはいえ、何も「だから責任はない」とかそんな事が言いたい訳ではありません。自分の経験ではない昔を思うのは大切ですが、そこでの思いを他者に押し付ける事に疑問を感じるのです。一個人にとって、過去は経験の上にしか存在しません。「歴史」は先人の経験を慮る為のきっかけでしかないのです。それは自らの歴史ではありません。どれだけ考えてどのような想像や思想に至っても、石を投げていい筈がありません。当たったら怪我しますでしょう。ましてや今回は教科書問題。なんでお前に干渉されないかんのだ。とついつい感情的になりそうなので、もうやめときます。 という事で今回は石丸謙二郎(51)について考えてみようと思います。
テレビ朝日で放送されている「世界の車窓から」のナレーションをつとめている彼は、たまのテレビ出演でそのマッチョぷりをいかんなく発揮しています。世界の何処かの車窓の風景とともに、聞こえてくる彼の爽やかな声。それを聞きながら私は、ブラウン管の向こうのそのまた向こうで彼がボディービルディングのポージングをしている姿を想像をしてしまいます。
私たちの見ている世界の全てが、世界の全てではないのです。ところが彼がタンクトップで力みながらナレーションしているところを想像した私の世界ではそれも一つの真実と言えます。
これは上記した、ある中国人民の行き着いた思想の形にも似ているように思うのです。さあ、だからといって私が友人に「石丸謙二郎ってポージングしながらナレーションしてるらしいよ」とは言うべきではないでしょう。それは投石をしている事と同じ事です。
とまあ、こんなことを言ってもきっと解ってはくれないでしょうから、せめて正露丸でも投げてもらいたいと思います。
世界の車窓は早く過ぎてゆくので、遠くを見なければ真実を見る事は出来ないのです。

モンチッチそれは猿

方向音痴という言葉がある。
主に方向感覚が優れず、道に迷ったりする人間に使われる言葉だ。しかし方向感覚の事を指しているにも関わらず「音痴」という言葉を使うのはいかがなものだろう。音痴は「音」にたいしての「痴」なのであるから、やはり人々は言葉を使う上で「オンチ」という言葉の音でしか使っていないのである。ということで今回は音痴以外のオンチについて幾つか挙げてみようと思う。
「温痴」極端な熱冷は感じられるが微妙な温度の感知機能に劣ること。
「恩痴」恩知らずなあの人。
「怨痴」恨まれているが本人は気づいていない。
「ON痴」いつの間にかスイッチが入っている人なので、怖い。
「カンチ」織田裕二。
「ノッチ」ノッチ。
など様々なオンチに出会う度にこれはどれだろうと、思い巡らす必要など全くない。あしからず。
ということで今回は織田裕二について考えてみよう。
彼の素晴らしいところは、そのいつまでも失われない前世紀感にある。いくら地球が回転し世界が21世紀になろうと、彼の笑顔、仕草すべてがロスト東京ラヴストーリーのような善悪両面での懐かしさを持っているのである。その印象が、20世紀というテレビ全盛期を作ってきた業界関係者の懐古意識を刺激し、今世紀のテレビメディアに彼が居残る要因にもなっているのだろう。しかしながらなんと言ってもその彼であるから、テレビ画面内における存在感はやはり善悪両面で強大なものに仕上がっている。試しに彼の役柄を21世紀に多く台頭してきた天然素材役者で想像してみると、これもまた善悪両面でのドラマの味わいが薄まってしまう。同時に彼はテレビ画面から出ることが出来なくなってしまったのだが。。。
だらだらと書いてしまった以上の事が理由かは解らないが、この桜咲く季節のテレビジョンコマーシャルに彼はサンタクロースの格好で登場するのである。事件はスタジオで起こっているのだ。

マッスルバリアフリー

なかやまきんに君。彼の素晴らしさは「筋肉で食べていく」という言葉の意味を広げたところにある。
言葉の意味と文字としての意味を考えてみると、人の使う言葉の意味というのはとても難しいもので、とくに社会の中では必要とされない(使われない)意味は円滑な(この場合は時間的な意味で)コミュニケーションを妨げるため、意識の外へ無意識に捨てられていく。
彼の登場以前の社会では「筋肉で食べていく」という言葉は主に肉体労働やスポーツによって生計を立てていく事を指していた。ところが彼は「筋肉ネタ」という手法でメディアから所得を得始めたのである。それは本来筋肉の持つ運動機能ではなく、筋肉の存在自体に着目したもので、それを笑いのネタにしようとした事で、かつてボディービルディングというジャンルが成し得なかった境地に「筋肉で食べていく」の意味を押し広げたのである。

はじまりはいつもアメ

何事も始まりというものがあるもので、本日が私のウェブログ作成初日なのです。 どうせ始まりなんて誰も知らないうちに始まっているものなので、誰にも読まれることはないのです。中学校教育教科書が「脱ゆとり」を掲げた時はじめて「ゆとり教育」が始まっていたことを思い出します。そもそも、ゆとり教育とは何なのでしょう。窮屈でない教育。脱ゆとり教科書にある竹島の領有権に関する記述に韓国政府が反発しているといいますが、そのような物言いにこそ余裕という名のゆとりを持って接することができるよう、教育に隙間など空ける必要などないのです。ゆとりのために脱ゆとりする時が来たのです。 何の話だか解らなくなってきましたが要するに、おニャン子とネプチューン結婚に覚える違和感も時間が経てば忘れるだろうということです。