夏目漱石の『三四郎』が好きだ。


九州から上京した三四郎の視点を通して、明治末期の東京大学のキャンパスライフが描かれている。


まだ近代化の途上にある東京で、地方出身の青年が“東京の空気”に少しずつ馴染んでいく。その距離感がとても繊細だ。


印象的なのは、学生たちの外国語の扱い方ー。


たとえば、英語の一節「Pity’s akin to love(哀れみは愛に近い)」をめぐって、与次郎 (三四郎の同級生) たちはそれを日本語に訳そうとして、あえて俗謡風に崩してしまう。

「可哀想ったあ、惚れたってことよ」

意味の厳密さよりも、響きや“それっぽさ”を優先する遊び方が面白い。すでに外国語を「知識」としてではなく、「素材」として扱っている。


さらに、食事会の場面では、熱弁をふるう与次郎を見て、色白の学生がナイフを止め、三四郎に目くばせしてフランス語でささやく。

Il a le diable au corps.

「悪魔が取り憑いている」という意味だが、こうしたフランス語の一言が、会話の中に自然に混ざっている。


しかもそれが“説明のため”ではなく、“ちょっとした冗談”として使われているのが面白い。


当時の学生たちは、日常的に英語やフランス語を自然に持ち歩いていたのだろう。引用やジョークの道具として、言語が生きている。


さらに作中では、マイナーな女性作家アフラ・ベーンが話題にのぼったり、「ストレイシープ(迷える羊)」という聖書の言葉が象徴的に使われたりもする。


現代から見ると、フランス語で冗談を言い合う大学生というのは、かなりハイレベルな知的遊びに見える。しかし彼らにとっては “背伸び”というより、むしろ当たり前の思考スタイルだったのかもしれない。


『三四郎』は、明治という時代の空気だけでなく、「言葉が自由に混ざり合っていた時代」の感触を伝えてくれる。


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