(再録)内田樹「もう一度村上春樹にご用心」(ARTES・1600円+税) | 野球少年のひとりごと

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(再録・2020.9.13既出)

 読了の、内田樹「もう一度村上春樹にご用心」(ARTES・1600円+税)、「村上春樹論」としてこれほどのものがあるかという程に面白く、村上春樹の著作を過去に読了のものも含めて読み返してみようと考え始めている。ランダムにではあるが、本書の中で印象に残った個所を少し長いが何回かに分けて引用してみる。

現代中国で村上春樹は圧倒的な人気を誇っているが、それを「現代中国の若者の孤独感や喪失感と共鳴するから」というふうに説明するのは、ほんとうは本末転倒なのである。/そうではなくて、現代中国の読者たちは、村上春樹を読むことで、彼らの固有の「孤独感や喪失感」を作り出したのである。「それまで名前のなかった経験」が物語を読んだことを通じて名前を獲得したのではない。物語を読んだことを通じて、「『それまで名前のなかった経験』が私にはあった」という記憶そのものが作り上げられたのである。/私たちは記憶を書き換えることができる。そして、自分で書き換えた記憶を思い出して、「ああ、私はこのような経験が私を今あるような人間にしたのだ」と納得する。/勘違いしている人が多いが、人間の精神の健康は「過去の出来事をはっきり記憶している」能力によってではなく、「そのつどの都合で絶えず過去を書き換えることができる」能力によって担保されている。(58~59頁、『1Q84』読書中)

ムラカミ・ワールドは、「コスモロジカルに邪悪なもの」の侵入を「センチネル」(歩哨)の役を任じる主人公たちがチームを組んで食い止めるという神話的な話型を持っている。『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』、『アフターダーク』、『かえるくん、東京を救う』…どれも、その基本構造は変わらない。/「邪悪なもの」は物語ごとにさまざまな意匠(「やみくろ」や「ワタナベノボル」や「みみず」などなど)をまとって繰り返し登場する。/この神話構造については、エルサレム賞のスピーチで村上春樹自身が語った「壁と卵」の比喩を思い浮かべれば、理解に難くないはずである。/このスピーチの中では、「邪悪なもの」とは「システム」と呼ばれた。「システム」はもともとは「人間が作り出したもの」である。それがいつのまにかそれ自体の生命を持って、人間たちを貪り喰い始める。システムの前に立つと、ひとりひとりの人間たちは「壁にぶつけられる卵」のように脆弱である。けれども、「卵の側に立つ」以外に、人間が「システマティック」な世界をわずかなりとも「人間的なもの」に保つためにできることはほとんどない。/本作では、「邪悪なもの」は「リトル・ピープル」と名づけられる。それとの戦いが現実の1984年とは違う。「1Q84年」という神話的な闘技場で展開する。/戦うのは「青豆」という名の女性主人公と「天吾」という名の男性主人公。彼らはそれぞれ「武器」と「物語」を手にして、「タマル」と「ふかえり」というパートナーとともに、絶望的な戦いに挑む。基本構造は変わらない。しかし、今回の長篇にはかつてない大きな変化が見られた。/それは「父」が前面に登場してきたことである。(61~62頁、「父」からの離脱の方位)

村上作品に「父」が登場することは少ない(「絶無」と言ってもいいくらいである)。分析的な意味での「父」とは単なる生物学的な父のことではない。(生物学的な母が「父」である場合も多い)。「父」とは「世界の意味の担保者」のことである。世界の秩序を制定し、すべての意味を確定する最終的な審級、「聖なる天蓋(てんがい)」のことである。/どの社会集団もそれぞれに固有の「ローカルな父」を持っている。「神」や「天」という名を持つこともあるし、「絶対精神」や「歴史を貫く鉄の法則性」と呼ばれることもあるし、「王」や「預言者」という人格的なかたちをとることもある。その世界で起きていることは(善きにつけ悪しきにつけ)何かが専一的に「マニピュレイト」しているという信憑(しんぴょう)を持つ社会集団はその事実によって「父権制社会」である。/どれほど善意であっても、弱者や被迫害者に同情的であっても、「この世の悪は『マニピュレイター』が操作している」という枠組みを採用する社会理論は「父権制イデオロギー」である。「父権制イデオロギーこそが諸悪の根源である」という命題を語ることによって「世界には『諸悪の根源』が存在する」という「父についての信憑」を宣布しているのである。(63頁、「父」からの離脱の方位)

なぜ、私たちは「父」を要請するのか?/それは、私たちが「世界には秩序の制定者などいない」という真実に容易に耐えることができないからである。/実際には、私たちは意味もなく不幸になり、目的もなく虐待され、何の教化的意図もなく罰せられ、冗談のように殺される。天変地異は善人だけを救い、悪人の上にだけ雷撃や火山岩を落とすわけではない。もっとも惜しむべき人が夭折し、生きていることそのものが厄災であるような人間に例外的な健康が与えられる。そんな事例なら私たちは飽きるほど見てきた。/では、世界はまったく無秩序で、すべてのことはランダムに起きているのかといったら、そうではない。そこには部分的な「秩序のようなもの」がある。世界を包摂するような秩序を作り出すことは「誰にもできない。けれども、手の届く範囲に限れば「秩序のようなもの」を打ち立てることはできる。科学的に思考し、フェアに判断し、感受性が鋭く、想像力の行使を惜しまない人々が集住している場所があれば、そのささやかな集団内で何か秩序のようなものが無秩序を相対的には制するだろう。/けれども、それはあくまで、一時的、相対的な勝利にすぎない。その「何か秩序のようなもの」を一定以上の範囲に拡げることはできない。そのような「ローカルな秩序」はローカルである限りという条件を受け容れてのみ秩序として機能し、普遍性を要求した瞬間に無秩序のうちに崩落するからである。/レヴィナスが書いているように、正義を一気に全社会的に実現しようとする運動は必ず粛清か強制収容所かその両方を採用するようになる。歴史はこの教訓に今のところ一つのも例外がないことを教えている。(63~64頁、「父」からの離脱の方位)

私たちは「父」を要請してはならない。たとえ世界のかなり広い地域において、現に正義がなされておらず、合理的思考が許されず、慈愛の行動が見られないとしても、私たちはそれでも「父」の出動を要請してはならない。「ローカルな秩序」を拡大しょうとするときに、私たちはひとりひとりの「手の触れる範囲」を算術的に加算する以上のことをしてはならない。村上春樹のエルサレム・スピーチでの言葉を使えば、「命と命を繋ぐ」以上のことをしてはならない。/私は「父権制イデオロギー」に対する対抗軸として、「ローカルな共生組織」以上のものを望むべきではないと考えている。思弁的にそう思うのではなく、経験がそう教えているのである。/村上文学における「父」の話をしているところだった。/文学もまた「父」を(ほとんどそれだけを)ひさしく主題にしてきた。あるときは「父の武勲詩」を、あるときは「父に抗う子どものパセティックな抵抗(と劫罰)の物語を、あるときは「父の不在」を嘆く悲嘆の詩を、その中にあって、現代の何人かの作家たちは「父抜きの世界」を描くという野心を抱いた。その中の一人であるアルベール・カミュは自作について次のように書いている。/「私は哲学者ではありません。私は理性もシステムも十分には信じていません。私が関心を持っているのは、人間はどのようにふるまうべきかを知ることです。もっと厳密に言えば、神も理性も信じずに、人がなお何ごとかをなしうるとしたら、それはどのようにしてかを知ることです。」(64~65頁、「父」からの離脱の方位)

このカミュの言葉にエルサレムの村上春樹は全幅の賛意を示すだろう。システム抜きで人間はやり遂げることができるか。ふるまい方を指示するマニュアルも教典も存在しない世界でも、人は人としてふるまうことができるか。もしそれができるのだとしたら、何が人の行動の規矩(きく)となるのか。/ほとんどの人はこれからどうするかを決めるとき、あるいはすでに何かをしてしまった後にその理由を説明するために、「父」を呼び出す。それは必ずしも「父」の指導や保護や弁疏(べんそ)を期待してではない。むしろ多くの場合、「父」の抑圧的で教化的な「暴力」によって「私は今あるような人間になった」という説明をもたらすものとして「父」は呼び出されるのである。「父」の教化によって、あるいは教化の放棄によって、私は今あるような人間になった。そういう話型で私たちのほとんどは自分の今を説明する。それは弱い人間にとってある種の救いである。/世界は「父」を呼び出すことで合理的なものになる。さまざまなあやふやなものが名づけられ、混乱は整序される。けれども、そのようにして繰り返し自己都合で「父」を呼び出しているうちに、「父=システム」はますます巨大化し、偏在化し、全知全能のものになり、人間たちを細部に至るまで支配し始める。(66頁、「父」からの離脱の方位)

私が今あるような人間になったことについて、私は誰にもその責任を求めない。そう断言できる人間が出てくるまで、「父の支配」は終わらない。「父の支配」からの「逃れの街」であるような「ローカルな秩序」は、そう断言できる人間たちによってしか立ち上げることができない。カミュやレヴィナスはそう教えている。私は彼らの考想に同意の一票を投じる。そして、村上春樹もまた彼らと問題意識を共有していると思う。(66頁、「父」からの離脱の方位)


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