先日街を歩いていたら、突然後ろから大声で「一寸、待ってくれよォ・・」と呼び止められた。

どきっとして振り向いてみたら何のことは無い、若者が誰かと携帯で話をしている会話上の大声であった。街を歩きながら大声で電話をする姿を見るようになってもう大分経つ。


小生は今、大学の聴講生になって学生の講義を傍聴させてもらっているが、キャンパスは勿論、教室内での学生達の嬌声は、天井を突き破らんばかりの大きなものであったりする。


こうしてみると、世の若者たちは本当に明るい。彼らは衣食全て満ち足りて幸福なのに違いない。だってネクラな若者なんて最近見ないもの・・・・・。


しかし一寸待てよ。じゃ何故中高生が飛び降り自殺をしたり、自殺者が年間3万人だったりするんだ?


彼らが表で見せる明るさって本物なの?明るくおどけているだけじゃないの・・・。

今は何となくそう思えて仕方が無い。

かつてテレビやパソコンが未発達の時代に、世間には「影」や「暗さ」と言われる部分があった。最大の「暗さ」は貧困であった。物理的貧困と言っても良い。

テレビが世に出だしてから50年。その「影」や「暗さ」は無くなったのであろうか?

そんなことは無い。物理的な貧困問題は多少なりとも軽減されたが、代わりに精神的な飢えのようなものが最大の「暗さ」となっているように思う。

何をやっても精神的に満たされない日々。それをネクラと言われようがじっくりと考えつつ日々を送ることが、集団から離れられない彼らには出来ないだけだ。


街に囲繞する若者たちの大声は、本当は救いを求める声ではないのだろうか・・・・。

「生活の遠近法」という言葉を知ったのは、井上ひさし(故人)の文章の中においてであった。

現代を評して曰く。  「生活の遠近法が歪んでしまった」という。


具体的な事象としては、「有名人XXXの離婚は良く知っているが、隣人のことは知らない」といった状況を指して言っている。

物理的にはずっと近い筈の隣人のことは何も知らないのに、遠く離れた有名人の離婚経緯は良く知っているという事と、実生活と虚像生活とが未分離の状態となって、実生活上は何の関係も持たない有名人XXXの離婚騒動の方が、ずっと自分には深い関係のリアルなものとして感じられる状態を言っている。


こうした状況は、新聞やテレビの発達(?)によって世界のあらゆる事件が瞬時にして知りうるというマスメディアを肯定する面がある一方、本来はくだらない、どうでも良い事柄をこれでもか、これでもかと繰り返し報道するマスメディアの性癖が生んだ病症だと私は考える。


最近の事例で言えば、チリの落盤事故で埋められた33人が一人一人カプセルで地中から救出されることになった。一番目にはXXさん(年令XX歳、趣味・・、子供XX人)、二番目はYYさん(年令XX歳、勤務XX年)・・・・・・

三十三番目はZZさん(・・・・・・)。こんな情報を一人一人顔写真入りで報道する必要がどこにあるのだろうか?

そんな暇があったら、尖閣諸島の中国船の悪行ビデオを探し出して報道することの方が、よっぽど重要ではないのか?


井上氏が書いているように、私には最近のジャーナリストの事柄への軽重(遠近)判断が歪んでいるとしか思えない。

表題のような設問が読売新聞のHPで展開され、アンケート募集をしている。。

現在の所、凡そ70対30で「評価しない」とした回答のほうが優勢であるという。


この件に関する私の関心事は、彼女の引退が妥当かどうかだとか、決断が

評価できるかどうか・・などといった事柄ではなく。

  ①何故、柔道引退の記者会見に小沢一郎が同席しているのか?

    柔道引退だったら、柔道連盟に申し入れし、連盟の人間が同席して

    会見するのではないのか?

  ②小沢一郎については毀誉褒貶は様々にあるものの、政治家としての

    見識は高いと思っていたが、こんなタレント議員の本業引退会見に

    同席するなんて、どのように自分を納得させて同席したのか、小沢氏

    の真意は奈辺にあるのか。

  ③谷亮子は、柔道界からの引退に政治家大物を同席させるほど自己評価

    が高いようだが、いつ頃からそんな錯覚に取り付かれたのか?

ということの方が知りたい事柄であるし、

同時にこうした常識外れの破廉恥な出来事に何の批判も加えずに、ただアンケート募集というやり方でお茶を濁していくジャーナリズムには、一体どういう神経をしているんだという怒りを覚えてしまう。

日本の民主主義がどんどん劣化している責任の多くは、ジャーナリズムのこうしただらしの無さにあるのだということの方が大きな問題である。