代官所襲撃成功の報告はすぐに原城にもたらされ、原城から狼煙が上がった。それを見た天草島々でも、狼煙を上げて襲撃の成功を伝え合った。鬱積した不満は一度爆発すると、波状のごとく広がっていく、その勢いは火砕流のごとくモウモウと周りの飲み込んでいくのだ。


島原藩主 松倉 勝家にもこの一報は伝わった、


「キリシタンの輩目!!周りの農民や、漁民を仲間に率いたとて所詮烏合の衆、さっさと始末するのじゃ、兵をだして叩きのめせえ!!」


松倉は侮っていた、己がしでかした失政によって、多くの人間が松倉に恨みを抱いていることを知りもしないでいた、キリシタンが唆(そそのか)したのではなく、キリスト教を信仰していた小西行長の家臣や、有馬氏の家臣が中心となって一揆をおこそうとしていた民をまとめたにすぎないのだ。それに気が付かず、兵を出した。


深江村で、一揆軍と島原藩軍の戦いとなったが、一揆軍の攻撃がすざましく、兵の疲労が強く島原城に引き上げざる得なかった。周辺の農民に武器を配り、藩主の軍として闘うように促したが、武器を手にしたもの中には、一揆軍に参加するものも多数いた。どうにも反乱が収まることなく、藩主の軍は島原城にて篭城して防備を固めるとしか手立てがないほどの状態であった。


「島原城を焼き尽くせ!!藩主の首を取れ!!」


一部暴徒とかした者どもが、城下を焼き払い、略奪を繰り広げて引き上げた。幸いというのか、城下は燃えたが島原城にはその火は燃え広がらなかった。

暴徒とかした反乱軍のが起こした様子を聞いた時貞は眉をひそめ、声を荒げて抗議をした、


「それでは、主旨が違う!!我らは、あくまでも城主 松倉に対してこのような無謀な取り立てをやめ、民が潤う国造

りを迫ることが主な主旨のはず!!かのような野蛮な行為は許せない。城下に住む者に危害を加える理由がないではないか!!」


しかし、各地区代表者からの返ってきた言葉は、時貞の考えを甘いと非難するものだった。


「戦乱というのは、こういったことが付きものじゃ、綺麗ごとでは済まされぬ。城下の者はの、もともとこのような目に遭ったとしてもおかしゅうはなか、あいつらは、松倉の手下じゃけん。今までおいたちん(俺たち)ごと辛か思いばしとっ奴らとは違う。」


フルフルと怒りをあらわにして言う者が数多くいた、綺麗ごとじゃ済まされない。その言葉が胸を衝く、戦知らずで育った時貞には、酷い現実が降りかかっていた。理想と現実の戦いは、あまりにも違いすぎた。


「じゃが、我らが無闇に殺生を繰り返せば、それは松倉と同じ、民はなるべく巻き込まぬようにしたい。」


時貞の訴えは、膨れ上がった鬱憤の中に埋没してしまった、民も、浪人も、全てが長い間苦しい生活を耐え抜いてきたのだ、それは、松倉の庇護のもとにいた者にも憎しみという火の粉を注いでいる、一揆の勢いは破竹のごとく広がっていく、島原半島の北西部まで広がり、その勢いは危うく日見峠を越えて長崎まで向かんとしていた。


時同じくして、天草でも一揆が起こった、こちらも勢いが止まることなどなく、天草支配の拠点である本渡城に攻め入った、勢いのまま富岡城代の三宅重利を打ち取り、富岡城の北丸を陥落させ落城寸前まで追い詰めた。しかし、本丸は防御が固く落城させることが出来なかった。

旧暦12月になり、この反乱が江戸の幕府にまで知れ渡った、時の将軍 家光は幕府の威信に関わるとし、この反乱を抑え込むため、九州諸藩による討伐軍を形成し、その総大将として、御書院番頭だった 板倉 重昌 を任命した。

幕府が討伐軍を挙げる情報が反乱軍にも伝わり、勢いで攻撃を繰り返していた反乱軍ではあるが、援軍の見込みがないことと、後詰めの攻撃を受けることの不利を悟り、各地から撤退し、原城にて討伐軍に対抗するべく篭城という形を取ることにした。この戦い方は、長期戦に向かないことなどわかっていたが、援軍のない彼らにとってこれが唯一の作戦となった。


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