原城は有明海に面した断崖絶壁を天然の要塞ととして作られた城であった。城から見える海の対岸には肥後が見え、また、天草の島々も見渡せるまさに、戦国の世に作られた城そのものだった。
長崎で育ったせいか、このように大きな城を見たことが無い二人は、暫くの間は、城の中を毎日のように歩いて回った。だた、ここに居るとこの近海の状況が嫌でも耳に入った。毎日のように使者が来訪し、大人たちに報告をしていく様は、戦の最中のようにさえ思える。しかし、まだ、戦は起こっていなかった、まだ、起こせる状態ではなかったのだ。頭がいないのだ、ここにきてそれが良くわかった、取りまとめをしているのは、森宗 意軒なのだが、既にかなりの高齢の彼では、戦で勝利をおさめた後、統治するには時がすくない、かといってそれに相応しい人物がいるとはとても思えない状態であった。時貞も、それには気が付いていた。だが、自分の父親の身分から考えても、時貞が統治するとはとても考えられない。自分からそれに名乗り出るほど過信もしていない。自分が出来るのは、頭となる者に仕え、弱き民を導く一人の指導者になるつもりでいた。


事態が動いたのは、天草の中の一つの島、湯島にて反乱軍を形成している各地の指導者が一同に集まって会談をした時であった。その時も、この反乱軍の指揮官を誰にするかという話し合いになっていたのだ。そこに、時貞は連れていかれ、一同の前に初めて顔を見せたのであった。


「一同に、申し上げたきことがござる。この、益田四郎時貞を、我らの総大将とし、この反乱の旗頭としたい。」


と、原城代表の森宗 意軒が一同のまえで宣言した。


「この者は、キリシタンの間では、救世主としてすでに名が通っておる。この美しい容姿のさることながら、剣術の腕もなかなかで、知性にあふれておる。そして、ゼウスと同じような奇跡を起こすことが出来るのじゃ。この者の他に、我らの中に大将の器がおろうか!!」


ざわざわとざわめく各地の指導者たちの前に立ち、時貞が口を開いた。


「我は、ゼウスの求める世を広める為にここに来た。我にゼウスの力宿れり。この、弱き民を率いて、よりよき政を行うべく我はここに参った。我に賛同せよ。我と共に闘うのじゃ。」


この言葉を聞いて、一同がウォー!!っと雄たけびを上げた。たった一言で、このまとまりの弱かった反乱軍が強い力で結びつくこととなったのである。こうなるまでには、かなりの根回しをしていたのだ。時貞の行く先々には、この会談に集まった指導者の手の者が、密かに彼を観察していたのだ。その時、時貞は幼い子供の眼を治していたのだ。その子は今まで目が見えずにいたのだが、時貞が触れて祈りを捧げるとその子の眼が見えるようになったのだ。その様子が他の指導者に伝わり、実際にそのようなことが出るのか、彼らの前で披露したこともあった。

森宗が時貞本人に総大将に据える話をしたのは、会談の一昨日前であった。


「私が、反乱軍の総大将にでございますか?御冗談でしょう。そのようなことお引き受けできませぬ。私に、世を変える力などあるわけがないではないですか!!ましてや、私は小西様の家来の子、とてもそのような器などありませぬ。」


「お主一人の力で世を変えるわけではない。旗頭が必要なのじゃ。儂では年を取りすぎておる。他の者では、纏まりはきかぬ。お主のその容姿は人目を惹きつける、そして、神通力があるじゃろう。それもまた説得の材料となった。人を魅了するだけの知性も度量も持ち合わせておるお主以外に誰がおろうか。」


森宗以外の小西家所縁の家来や、有馬家の家来などから説得され、時貞はこの申し出を受けたのだ。考える猶予と、選択の余地はなかったただ磯部運之丞を小姓として自分の側に仕えさせることを唯一の条件としてこの話を承諾したのだ。


「して、皆の意は固まった。この者の名を、この地で統治されていた、天草殿の名を戴き、これよりこの者を 天草四郎時貞とし、我らの総大将となす。決戦は間もなくじゃ。」


こうして、天草四郎時貞は誕生した。この時彼の年齢は16歳であった。


原城に戻った時貞は、海を見ながら運之丞にだけ呟いた。


「儂は、もう後戻りは出来ぬようになった。大勢の命運をこの手に預けられている。怖いの・・運之丞。」


運之丞は黙ってその言葉を聞いていた。誰よりも、時貞の気持ちが痛いほどわかっていた。


寛永14年10月25日(1637年12月11日)有馬村のキリシタンが中心となり、代官所に赴いた。年貢の過度の徴収を止めるようにと強談判(こわだんぱん)しに向かった。今年は、作物の実りには恵まれた、しかし、昨年の徴収が不十分だとし、昨年足りなかった分まで出せと松倉が命じていた。もう、我慢がならなかった。総大将は決まった。あとは決起の時を待つばかりだった。そして、この日事が起こったのだ、強談判(こわだんぱん)に行った者たちが、代官を惨殺し、代官所を破壊したのだ。これを皮切として、乱が勃発した。
世にいう 島原の乱 の始まりである。


←29      31→