あるところに赤い血を吸う蚊がいた。ある日、蚊は空高くを自由に飛ぶ鳥を見た。憧れてじぶんも鳥になりたいと思った。さらに鳥は歌も歌える。蚊はじぶんも歌をうたえるようになりたいと思った。だから、蚊は声を求めるようになった。

 歌もうたいたいし、声も欲しい。ぜいたくな蚊だった。蚊の夢を叶えるには多大な労力が必要だ。神さまもため息をついた。ついでに蚊はイケメンボイスまで求めていた。だが神さまはわかっていた。蚊がじぶんの言葉が欲しいと思っていることを。人が書いた言葉を読むだけでなく、じぶんの言葉で語りたいのだ。

 蚊は農家のサイヤ人に弟子入りして鳥になる方法をきくことにした。農家に弟子入りした蚊はまるで野菜にたかる虫のようだった。サイヤ人は宇宙の果てからやってきた宇宙人だった。数か月を一緒に働き、とうとうサイヤ人は鳥になる方法を教えてくれた。

 鳥になる方法。それは「桜前線にさからって南へと飛んで旅すること」。サイヤ人はそう教えてくれた。桜前線にさからうということは、恋の春にさからうことだ。蚊タッカールはそう解釈した。

 蚊タッカールは恋人を呼び出して別れを告げた。別れる理由を問われた雄蚊タッカールは「この世界はひとりで生きるようになっているから」と告げた。うそをついたのだ。ほんとうは鳥になりたかっただけなのに。蚊タッカールは生粋のうそつきだった。

 蚊タッカールは桜前線にさからって南の海洋へと出た。そこで大海原を泳ぐクジラと出会った。「どこに行くの?」そう問われた蚊タッカールは本当のことを言うのが恥ずかしくて気取って「桜の風の起源を探している」と告げた。するとクジラは「うそつきめ!」と言って蚊タッカールを食べてしまった。

 クジラに食べられた蚊タッカールは翅が傷ついてしまい飛べなくなってしまった。ああ、せっかく鳥になろうとしていたのに。タッカールは反省した。おれがうそをついて恋愛の起源を探すなどと言ってしまったために神さまの怒りを買って俺は飛べなくなってしまったのだ。海に大雨が降り始めた。

 蚊タッカールは数日間をクジラの胃の中で過ごした。胃酸に溶かされないように胃の出っ張ったところで身体を休めた。気が休まることはあまりなかった。この絶体絶命のとき、雄蚊タッカールのもとに彼を追って南洋まで飛んできた雌蚊アスカがクジラの胃の中にあらわれた。しかし雌蚊アスカの翅もタッカールのように傷ついていた。ふたりは互いに支え合うようにして飛び、クジラの胃から抜け出すことに成功した。

 ふたりがクジラの胃から出ると、雨雲が晴れて太陽の陽ざしが射した。まるで銀河の瞳がひらいたかのようだった。ふたりは大いなる世界から出たのだ。

 ふたりの蚊のカップルは、ひとまず南の地方にあったアスカのふるさとへと傷を癒すために立ち寄った。そこで蚊の長老カジメと出会い、「翅が再生することはないから、これからはふたりで支え合って一緒に飛ぶしかない」と告げられる。雄蚊タッカールは鳥になって空を飛びたくて旅をしていたのだが、こうなってしまったことも運命だと思い、神の意向を受け入れることにした。

 しかし諦めのつかないところがあったタッカールは、それでも鳥になる方法はないかと長老カジメにきいた。長老カジメは「なぜ鳥になりたいのか」と問う。そこで蚊タッカールは「じぶんの声が欲しかったのだ」とじぶんの本当に願いに気が付いた。

 蚊タッカールはじぶんの蚊の鳴くような声が好きではなかった。そんな声で人から作ってもらった歌をうたうのが嫌だった。だけどじぶんで作った歌なら自由にうたえる。蚊タッカールはじぶんの蚊の鳴くような声に自信がなくて、じぶんの本当の声を求めたのだ。そのための人生の旅だった。雌蚊アスカを見る。アスカはどこかすべてを知っていたような目をしているような気がした。

 長老カジメが言うところによれば、近くのマルボウの洞窟に春風の源があり、その風にのって列島へと旅をすれば鳥になれるかもしれないらしい。今年の春風の名前はヒデンドマーシー(hidden marcy)と言い、ふたりはこの春風にのって列島へと帰ることにした。ヒデンドマーシーとは「秘密の寛大な措置」という意味だった。雄蚊タッカールの旅の完成には神さまの寛大な措置があったのだ。

 タッカールとアスカは桜風ヒデンドマーシーにのって南洋を北上した。いつしかふたりは桜風の中に溶けて、列島に春を伝える言葉そのものとなった。