実家に帰省した際、近所へ買い物に行くため母親の車を借りて運転したことがあった。買い物を済ませ、帰宅したときに、ふと自動車保険はどうなっていたのだろうかと気になり始めた。もし、同居する家族限定の自動車保険の場合、私が事故を起こせば補償の対象外になる。もしかしたら、危ない橋を渡るようなことをしたのかもしれないという気持ちを抱えつつ、母親の車を管理している弟に保険のカバー範囲を尋ねたたところ、年齢による限定とのことであった。
「無補償の状態で運転してしまったかも」という妄想は杞憂だったのだが、知らないことの強さに気付かされる出来事だった。もし、母親の自動車保険が同居家族限定だった場合、私は運転しようとしない。どうしても運転しなければならない場合は緊張した状態でハンドルを握り、ぎこちない運転をしただろう。しかし、自動車保険のカバー範囲を気にしない、もしくはそんなルールの存在さえも知らなければ、悠々と運転するだろう。
そう考えると、ふと、若い頃の強さは知らないことから来ているように思えてきた。若い頃は世の中のルールや慣習をあまり知らないのと溢れるエネルギーも相まって、多少の無茶をやってしまう。後で振り返ればヤバかったと思うことも、恐れを知らないので平然とやってしまう。本人は至って普通にできてしまうので得意げになるわけでもないが、少し世代の離れた人が見れば驚かされることもある。
一方、年齢を重ねていくと経験と共に様々なことを知る。酸いも甘いも噛み分けることで慎重さがその人の中に育ってくる。その結果、傍から見れば高齢になるほど保守的な人だったり、優柔不断な人、あるいは臆病な人に見られる場合がある。
若い頃の自分と比べてみても、今の私は世の中の仕組みや相手の視点を多少なりとも想像できるようになってきたことで、「強引さが目立つかも」と思えることは慎むようになってきた。確かに、私自身、知らないことによる強さは衰えてきている自覚があるが、その代わり、別の強さが芽生えているような感覚がある。それは自分を信じることから生じる強さではないかと思っている。世の中のルールやネガティブなリスクを知った上で不確実性の世界を生きていくことは、恐い側面もある。しかし、怖がってばかりでは何もできない。どこかのタイミングで自分がやっていることに対しておっかなびっくりやるのではなく、「私は大丈夫」という感覚が大切になってくるように思う。それが周囲から見たときに”強さ”のように映るのではないだろうか。そして、逆境に置かれたときにこそ、自分を信じる度合いを試されているように思える。では、自分を信じられるようになるためにはどうするのだろうか。あるいは何が必要なのだろうか。