(24)2015年 冬
例の医学用語の訳を同期の島村に手伝って貰い、コンサルからの薬事チェックも終え、なんとか新カタログの入稿に間に合いそうだ。
マーケティングは、時間との闘いだ。
前職でもそうだが、今回の仕事でも亜希子はそれを痛感していた。会社が正式なプロモーションやキャンペーンの発表をするためには、それを見越した在庫管理が必要で、その前には製造計画も早めにリクエストしなければならない。売りました、欠品しました、ではただの笑い話。だから、大概はどの会社もマーケティング専用のカレンダーがあり、それで半年先、1年先を見越しての新製品ローンチ(発売)計画や、売上増加と会員数の増加を見越したプロモーションを立案していく。
しかもやっかいなことに、一般の小売と違い、全てのディストリビューターにはその「スポンサー=紹介者」がいる。会社の失態はスポンサーへの信頼失墜に直結するので、決してミスは許されない。
昨年、会員たちが使用するいわゆる「マイページ」がフリーズしてしまい、全体のシステムがダウン。月末の成績を締めるタイミングにちょうど重なり、リーダー達からは大クレームが寄せられたことがあった。しかも営業時間の終わり直前だったので、電話が殺到して留守電に切り替えられずに、その日は派遣さんにも残業をお願いせざるを得なかった。モンソン支社長はオフィスに泊まり込んで、向こうのITマネージャーと一晩中スカイプをつないで連絡を取り続けた。ようやく復旧したのは、とうに日付を越えてしまっていた。
そんな苦労を分かっているから、亜希子は工藤と島村を食事に招待した。大川から、特別に予算をもらって社費で支払っていいとも言われていた。
大手町の、とあるビジネス・ビルの最上階のレストラン。金曜日の夜に、2人の到着を待った。19時半。席は、殆どがカップルで埋まっている。特に夜景を臨む席でなくても構わない。亜希子は黒服にその旨を伝えて、彼らの到着を待った。
時は12月。世の中は師走の風が吹いている。まだ早いが、もうじきクリスマスを迎え、さらにこのレストランの窓際の席は予約が取りにくくなるだろう。
ショートメールが届く。工藤から、だ。
「杉村さん、島村の奴、急患の対応をしなければならなくなったそうです。すみませんが、僕独りになってしまいます。もうすぐ、到着します」
あら残念。島村とは面識がなく、今日初めて会って御礼が出来ると思ったのに。
(皮膚科で急患?火傷、かしら)
10分かからず、工藤が到着した。
「杉村さん、申し訳ありません。島村も、恐縮していました」
「いいえ。お医者様ですから、こういうことも、あるでしょう」
黒服に促され、工藤が汗を拭きながら椅子に座る。
「まあ、なんちゅうか、ヤクザな商売ですよね医者って」
「ヤクザだなんて、そんなことないでしょう」
「いや、よく言われます。刃物は一緒、人を救うのがメス、殺すのがドスってね」
「あら、やだ」
笑いがこぼれた。
「お連れ様がお一人ということで、いかがでしょう、窓側の席にご案内しましょうか?」
「じゃ、お願いします」「あ、いいえ」
同時だった。2人で顔を、見合わせる。
黒服が笑って、
「おや、いかがしましょう」
「じゃ、窓側に。いいでしょう、杉村さん」
工藤がせっかちに、椅子から立ち上がった。
(ここで断ったら、この人、恥をかく)
「・・・ええ、では窓側で」
「かしこまりました」
薄ら笑いを浮かべた黒服についていきながら、
(こんなカップルもどき、きっと多くいるのね)
と亜希子は思った。