「ドン」
地面を突き上げるような爆音が近江屋全体を揺るがす。
二階の窓から白煙が飛び出した。
それは疾風のごとく河原町通りを駆けた。当然、向かいの土佐藩邸にまで届いたはず。
「しまった」
近江屋の軒先で見張っていた新選組の大石鍬次郎は、咄嗟に槍を手に単身近江屋に土足のまま乗り込む。
一気に二階へ。
硝煙の匂い。
吹き付けられるような灰が部屋中に立ち込めている。
何も見えない。音がない。
天井からバラバラと煤が降ってくる。
どうなっているのだ。
行灯の橙色の光だけが不気味に揺れる。
「藤堂、中岡慎太郎を連れ出すぞ」
奥で服部武雄の声が聞こえる。
伊東甲子太郎率いる御陵衛士は、土佐藩後藤象二郎の命を受け、醤油屋近江屋の二階で匿われている陸援隊の坂本龍馬の警護をしていた。
一方、新選組の暗殺を最も得意とする大石鍬次郎は、討幕をもくろむ陸援隊の中岡慎太郎を斬るためにつけ狙っていた。ついに追い詰めたと思った瞬間、大石は近くの町家に逃げ込んだ。
それが、あろうことに坂本龍馬が潜む近江屋だったのだ。
大石は、河原町通りの向かい側で遠巻きに見張っていた御陵衛士の藤堂平助と服部武雄に相談した。
大石は近江屋に押し入って、中岡を仕留めたいと申し出た。
が、坂本龍馬の身に危険が伴う可能性があるので反対された。
結局は藤堂と服部が御用改めとして近江屋に入り、押し入った不審者として中岡を外に引っ張り出すということになった。
二人は、十津川藩士と偽って、中に入った。しばらく待たされた。
ようやく、龍馬の用心棒藤吉が現れて、二階へ案内された。
藤堂は、龍馬がいるという部屋の襖を開けた途端、すうつと拳銃が出てきた。
額の傷にぴたりと突き付けられた。
龍馬が刺客と感じたのだ。
「何者だ」
「今しがた、こちらへ不審なもの押し入ったと聞き、御用改めでござる。坂本殿、物騒なものはおさげ下され」
「違う、こいつらは新選組だ。その男の額の傷を見ろ、こいつは池田屋に押し入った藤堂平助だ」
龍馬の顔つきが一変した。
仲の良かった望月亀弥太の顔が頭の中をよぎった。一緒に外国へ航海をする約束だったのに。こいつらに夢を踏みつぶされた。
「こなくそ」
龍馬は引き金を引く、その瞬間、服部が脇差を抜いた。
銀色の閃光が龍馬の右手首をすり抜けたと同時に、銃口が火を噴いた。突然、火鉢が爆発する。
「ドン」
藤堂は、一瞬何が起こったのかわからず立ちすくんでしまった。
服部はすかさず、部屋にいるもう一人の男、中岡慎太郎らしき人物を捕まえようとして中へ踏み込もうとした。
その時、背後から龍馬の用心棒藤吉が、服部を羽交い絞めにする。
元相撲取りであった藤吉は吉岡の体を上から覆いつくすように締め上げる。
身動きどころか息も出来ない。
首の骨が軋むような音を立てる。気を失うのも時間の問題であった。
火鉢の灰を頭からかぶった龍馬は、一瞬何が起こったのか理解できないでいた。
炭の火の粉もはねたようで、髪の毛の焦げた匂いがする。
目が開かない。
音が聞こえない。
辺りは騒然としているのに、沈黙の世界である。
涙が洗い出して、闇が溶け出すように徐々に視界が蘇ってくる。
顔を袖で拭おうとしたが右手が焼けるように熱い。
手が上らない。
ふと横を見ると、火鉢の中に黒焦げになった拳銃を握ったままの右手首が落ちていた。
「斬られた」
立ち上がれない。
「中岡、俺は手をやられた。起こしてくれるか」
左手だけで這うようにして、中岡慎太郎にじり寄る。
あろうことか、中岡は胸から血が噴き出して仰向けにひっくり返っている。
苦しそうな呼吸だけが聞こえる。
龍馬は悟った。
藤堂を狙って撃とうとした弾が、右手もろとも服部に斬られたために、狙いがそれて中岡の胸に当たってしまった。
龍馬は悔やんだ。
同志を拳銃で撃ってしまったことを。
しかもそれが親友の中岡慎太郎。
咄嗟にこのままでは生きて行けない。
腹を切るしかない。
脇差がない。
中岡に貸していたのを思い出した。
中岡が差していた脇差を引き抜こうとするが左手だけでは上手くゆかない。
仕方なしにそのまま刀身を抜いた。
そして中岡の血で濡れている柄を逆手に持ち替えて自分の腹に突き立てる。
その瞬間、今まで瀕死の状態であった中岡が龍馬の左手を急に掴んだ。
「リョウマサン、マダシヌナ、ユメガアルハズ、シヌナ、ユメユメ、ユメヲカナエヨ、マダシヌナ」
何処かで聞いたことがある言葉。
そうだ、三吉慎蔵から聞いた言葉。
寺田屋から逃げる途中、もう駄目だと観念して腹を切ろうとした時に、三吉が俺に諭した言葉だ。
あの時のように力ある限り逃げよう。
あの時のように屋根伝いに逃げよう。
あの時はお龍がいた。三吉慎蔵がいた。
今は自分一人。
恐怖よりも孤独に胸が締め付けられる。
龍馬は左手に持った抜き身の脇差のままだけで、はいつくばって窓の方に向かいだした。
「リョウマサン、マダシヌナ、ユメガアルハズ、シヌナ、ユメユメ、ユメヲカナエヨ、マダシヌナ」
その言葉が頭の中でぐるぐる回り出す。
「俺には夢がある。まだ死ぬわけにはいかない」
外国行の大きな船に乗って、デッキで潮風にあたりながら、大海原を眺める自分が見えた。
ようやく目が慣れた大石が最初に見えたのが、大男に羽交い絞めされている服部だった。
「御免」
槍では、服部まで傷つけてしまう恐れがあったので、太刀を抜いて藤吉を袈裟懸けに斬りつけた。
中に入った。
窓の外に逃げ出そうとする男が見えた。
「背を向けて逃げる者は斬る」
それは新選組の鉄則であり武士の掟。
大石は躊躇せずその男の背中の心臓部分の槍を突き刺した。
血しぶきが噴出し、床の間の屏風にまで飛んだ。
「大石、違う、それは龍馬だ」
服部の声で思わず槍を引き抜く。
栓を抜かれたように血が溢れ出す。
龍馬はそれでも外へ出ようとする。
海だ。海だ。
俺は海を見たい。
最後の力を振り絞って顔を上げる。
満月だった。
それは、新婚旅行で薩摩行の船のデッキから見えた満月と同じように見えた。
「おりょう」
急に痛みが消えた。身が軽くなり、すっと浮き上がった。
そして、満月に向かって吸い込まれていくような自分を感じた。
「おりょう」
寝床に入っていたおりょうは、龍馬に呼ばれた。
あの人は京にいるはず。
胸騒ぎを覚えた。とっさに窓を開けて外を見た。
流れ星がひとつ、長い尾を引いて夜空を横切って行った。
おりょうは悟った。
目御閉じて、手を合わせた。
その瞼には、外国行の大きな船に乗って、デッキで潮風にあたりながら、大海原を眺める龍馬の姿が映っていた。
