会社を出て、ホームでオトーサンを見かけたとき、思わず駈け出してその腕にすがりつきたくなった。

公宣堂の社員と支店長の足かせさえなかったらそうしていたはず。

少なくとも、いつもの香田美月を演じないと、自分に言い聞かせた。

いつもの時間の、いつもの地下鉄の、いつもの席に座っている貴島支店長。
いつも一人だけ文庫本を読んでいる。

時折、顔を上げて遠くを見る、その目が17歳の時に過労死で亡くなった父親に似ていた。

それで私は、こっそりオーサンと呼んでいる。

でも今日は、いつもと違う。

ワタシが目の前で立っているので気をつかってか、いつものように文庫本を読まない。

視線もワタシの方をわざと見ないようにして、どことなしに落ち着きがない。

ワタシは、それを可愛らしいと思う。

地下鉄が中津駅を過ぎると、地上に出た。

淀川を越えると、ワタシは本当の香田美月に戻る。

この大きな川が、ワタシの分かれ道。 地下鉄が地上に上がると、気分が浮き浮きしてきた。

なにか思いっきり息を吸い込んだままにしているような気持ち。

それにしても、きょうの淀川の景色はきれい。

ひくく落ちてきて、優しくなった太陽の光がここちよい。

やさしく包み込んでくれているような気がする。

「支店長、きれいな夕日です。淀川が光りかがやいて、すごくきれい」

思わず口に出してしまった。

良かった、オトーサンってでなくて、

でもこの川を渡ったらそう呼ばしてもらおう。

ワタシも、本当の香田美月にもどっているから。

うしろを振り返って、淀川の夕陽をながめているオトーサン。

こちらからは顔は見えないけれど、会社で見せているようなしかめっ面じゃないはず。

「綺麗だね。絵に描いて残して置きたいな」

「写真じゃないのですか?」

「写真は、苦手だ」

「絵は、御上手なのですか?」

「・・・」

「書いたことがない。 もっと下手だと思う」

今、オトーサンはどんな顔して話をしているのだろう。

ずっと夕陽を見ているオトーサン。

「ミツキ」

突然、呼ばれたような気がした。

オトーサンがこちらを向いた。

目が合った。

最後に見たお父さんの目。

その視線は私を通り抜けた。

そこには、亡くなったお父さんがいた。

子供のころ、まだ自転車に補助輪なしで乗れなかった時。 後ろで荷台を必死でつかんでいたお父さん。

「美月、持ってないよ、何も持ってないよ、手を放しているよ」

あの顔を真っ赤にしたお父さんが戻ってきている。

ワタシも、あの頃に戻った。

無邪気な笑顔が自然に出た。

でも、知らずしらずのうちに目頭が熱くなってきた。

すごく楽しいのにどうして涙が出るの。

「リタイヤしたら、ゆっくりと油絵でも描こうと思っています。リタイヤしてからね」

いつまでもオトーサンと一緒にいたい。

何処にもいかないで。

夕焼けを恨めしく思った。