夫の裕司が先日受診した精密検査の結果が思いのほか悪かった。

すぐに入院しなければならなかった。

私は居ても立っていられずに、単身赴任先の大阪のマンションまで来てしまった。

どう伝えたらいいのだろう。

ひとり裕司の部屋の中でずっと考えていた。

5月のゴールデンウィークに来て以来、2カ月ぶりの裕司の部屋。

いつも通りきちんと整頓されている。

でも何かが違う。

女の勘かしら。

何かを隠蔽するが為の繕いの整頓を感じる。

もう一度、クローゼットの中を確かめた。

私が使っているきちんと畳まれたバスローブ。

臭いを嗅いでみた。

夏の香りがする。

やはり怪しい。

ここまでは裕司も気づかないはず。

バスルームの排水溝のネットを外して中まで調べた。

やっぱり。

長い髪の毛が出てきた。

裕司はこの部屋に私以外の女を招き入れている。

嫉妬が沸き上がってくると思っていたのに、悲しみが沸き上がってくることに私自身が驚いた。

裕司の身体のこと、これからのことを考えるとなぜか悲しみの方が勝ってしまう。

早く裕司に会いたい。

仕事帰りの彼を捕まえるために駅まで迎えることにした。 

吐き出されるように降りてくる乗客の中で、裕司を見つけられそうにない。

仕方ないので、先にスーパーマーケットで買物を済ませるようにした。

裕司の好きな魚の煮付けとごぼうのきんぴらとだし巻き卵。

レジで精算する時に、エコバッグを持ってくるのを忘れたのに気が付いた。

しまった。

土だらけのごぼうが、不格好に突き出ている。

こんなことなら、切ってあるのにしとけば良かった。

スーパーマーケットの効きすぎた冷房に体が慣れてしまったせいか、外に出るとむせかえるような熱気が襲った。

夕方とは言え、真夏の日差しは、日傘をすり抜けて来るみたいで、お肌が悲鳴を上げそう。

裕司の部屋まで、随分距離がある。

熱い。

レジ袋が重い。

こんなに沢山買い込まなければ良かった。

立ち止って、滲み出す額の汗をガーゼのハンカチで拭っていると、反対側の歩道を見覚えのあるライトブルーのジャケットが近づいて来る。

どんなに暑くても、必ず長袖のジャケットを着る裕司。

そう、あれは正しく裕司のジャケット。

女性と二人並んで歩いている。

アスファルトの照り返しによって、空気が陽炎のように揺らいでいて顔まではよく見えない。

楽しそうに会話をしているように見える。

若いカップルにしか見えない。

それにしても、こんな真夏に裕司と同じライトブルーのジャケットを着ている人がいるなんて。

私は、立ち止まったまま、そのカップルを通り過ごそうとした。

裕司。

若い、あの頃の裕司。

はにかみを残した笑顔。

優しい目。

タイムスリップして今の私が、裕司と連れだって歩いている若い女性に乗り移ったような気がした。

懐かしい裕司の笑顔。

会いたかった。

「裕司」

思わず叫んでしまった

懐かしい裕司の笑顔が、今の裕司の顔に戻った。

困惑した表情になった。

私は、裕司を現実に引き戻してしまった。

「大きな声を出してごめんなさい。驚かしちゃったね。だって、知らん顔をして通り過ぎるところだったのよ」

「明日の朝に来るって言ってなかった?」

「一人でいるのも、つまらないから早く来ちゃった。迷惑だったかしら」

「そんなことはないよ。こっち側の本屋さんに行こうとしたら、偶然に同じ会社の人と出会ってしまって・・・」

裕司はあくまで冷静を保っているように繕った。

目をそらした。

いつもの何かを隠している時の目。

長年一緒に居たからよくわかる。

この若い女が、バスルームに残っていた髪の毛の主なのだろうか?

「香田と申します。いつも貴島支社長には、お世話になっています」

透き通るような声。

こちらが恐縮するくらいに丁寧に頭を下げられた。

シルクのような光沢を持った黒髪が、滑らかに流れる。

ゆっくりと、顔を上げる。

髪をかき上げる指先の美しさ。

天然真珠のような光沢を放つナチュラルな爪。

血管が透き通って見えるような白い頬。

しかし、愁いを帯びた目は、困惑の色を帯びていた。

なんて綺麗な娘さん。この娘さんが、部屋に来たのだろうか?

彼女の視線が、私の持っているレジ袋に落ちたとたんに、悲しい表情に変わったのを私は見逃さなかった。

この娘さんは綺麗なのに、何て悲しい目をするのだろう。

私も自分のレジ袋に目をやった。

突き出ている土のついたごぼう。

スーパーマーケットの大きいロゴが入って大きく脹れあがった重いレジ袋。

それを持つ年輪を隠し切れない疲れた手。

嫉妬?

いや、それを通り越した感情。

かつて私も持っていた、でも失ってしまったもの。

シミのない張りのある白い頬。

この娘さんなら、先程のあの頃の裕司の笑顔を蘇らせることが出来るはず。

もう一度、裕司のあの笑顔を見たい。

本当は悔しいけれど、あなたに託すことしかできないのよ。

なのに、この娘さんは悲しい目をしているのだろう。

「帰ろう」

裕司が、さっとレジ袋を持ってくれた。

私の心の中が暖かくなった。

私は敗者をいたわる裕司の優しさを感じた。

レジ袋が裕司の手に渡った時、娘さんの目の悲しさの度合いが増した。

あなたは勝っているのよ。

なのに、そんなに悲しい目をするの。

「何か邪魔しちゃったみたいね。独り暮らし?よかったら一緒に御食事しない?私が作ってあげるわ。二人も三人も一緒よ。私達ちょうど、あなたと同じくらいの年頃の娘がいるの」

裕司の顔を見た。

何かを言い出しそうな顔。

「そうしたら」と言いだそうとしているけど、言い出せない顔。

その顔は、娘のカンナと接している時の顔。

父親の顔。

良かった。

この二人は、私が懸念しているような関係じゃないみたい。

「ありがとうございます。折角の夫婦水入らずのところをお邪魔する訳にはいけませんので」

「遠慮しなくても良いわよ」

「でも・・・」

彼女の視線は、裕司の持っているレジ袋の方に移って、増々悲しい目になった。

涙を必死でこらえているように見えた。

「ごめんなさいね。勝手にお誘いして。また今度来た時に、お誘いするわ。その時は、絶対に来てね。絶対よ」

夕暮れの空をカラスが短い泣き声をあげて飛び去った。

「また今度」という言葉が出てしまった。

私の中でその言葉が繰り返し流れる。

彼女の美しい頬を見ていると、私の言葉が偽りの響きに聞こえる。

裕司は、病に侵されていて、会社を辞めなくてはいけなくなるかもしれない。頭をよぎった。

私も、油断したら涙が零れそうになった。

「じゃあ、さようなら」

私は、平静を装ってその場を離れた。

裕司は、慌ててついてきた。

暫く行って後ろを振り返ると、彼女は、その場に立って、見送っていた。

振り返ったのを気づくと、また深々と頭を下げた。

見えなくなっても、ずっとそのままで見送っていてくれるような気がした。

「いい娘さんね。何てお名前でしたっけ」

「香田美月さん」

「良いお名前ね。コウダミツキさん」

そっと裕司の横顔を盗み見た。

遠くを見ている、いつもの裕司の目。

その横顔には、先程香田さんと話していた時の懐かしい笑顔の余韻がまだ残っていた。