駅の待合室で2時間ほど待たなければならなかった。そこは16畳くらいの部屋で(イタリアの部屋を畳で数えるのはなんとなくあれだけど、ほかに表し方をしらなかった)、塗りたてのような真っ白の壁に白い床、そして白いベンチと、黒い電光掲示板がふたつある。でもぼくにこの電光掲示板は関係ない。なぜなら乗らなければならないのは駅前から出るバスだし、その掲示板は電車のためのものだ。
本を取り出してしばらく読んでいると、目の前を小さな虫が、嫌な速度で通り過ぎた。一瞬でそれとわかる雄弁な速度。蚊だ。
ぼくは本を閉じて鞄に入れ、代わりにさっきよりも3割くらい目を開いて蚊を追った。
蚊がベンチのちょうど後ろの壁に止まったとき、思わず小さな変な声が出た(ぉm…みたいな)。
その真っ白な壁には所々に、小さな、黒と赤のよごれがあった。それは今までここに座った人の血と、果敢に栄養を求めて挑戦し、失敗した彼らの、いや、彼女らの跡だった。
ぼくは蚊を追うのをやめ、3割開いた目を元に戻した。そしてバスに乗る頃にはどこかしらが痒くなるであろうことを覚悟して、本を取り出した。
ぼくはバスに乗っていた。
暗い夜行バスの中で読書灯をつけて、右のアゴ近くの頰を掻きながら本を読んでいると、目の前を小さな虫が、黒く光りながら嫌な速度で通り過ぎた。一瞬でそれとわかる雄弁な速度。蚊だ。パチっと本を閉じて、もう一度開くと右のページの「長」のところに蚊が張り付いていて、左のページの「ン」のところがただ黒く汚れていた。白いベンチと塗りたての白い壁の部屋にいたらよかったのにねぇと心の中で言って、蚊を指で落とした。