3月8日(日)・9日(月)の両日、峰入りセミナーに参加しました。
佐世保からは、急なキャンセルもあり2名が参加し、朝7時半に出発しました。途中佐賀で1名が合流し、九州自動車道を約4時間かけて、大分県豊後高田市にある富貴寺に着きました。
大分県国東では、数百年前より10年に一度半島の霊場を巡る厳しい修験行事が続けられています。峰入りセミナーは初心者向けの体験コースで、ことしは途中由緒あるお寺や神社などを訪ね、歩きやすいなだらかな道を歩きました。
梅の並木沿いに下って行くと、富貴寺はすぐ目の前です。ことしは比較的暖かだったせいか、梅の花の見ごろは少し過ぎたようですが、それでもあたりには梅の香りがほのかに漂ってきます。集落から一段高い丘の上にある富貴寺に11時30分に到着。車から降り立つと、ひんやりとした早春の風が宿坊「ふきのとう」のまわりの竹林の若葉をゆらしています。眼下の谷には田園風景が広がっています。
ひとまず富貴寺宿坊「ふきのとう」の一階にある食堂に入りました。大分と福岡のメンバーがすでに到着しており、参加者は全員で9名でした。いつもより少なかったのですが、気心の知れたメンバーで、とてもくつろいだ雰囲気になりました。
食事を済ませると、2代の車に乗り合わせて県道655線を北へと向かいました。車窓から眺めるのどかな田園風景は田染の集落で、宇佐神宮の支配下にあった荘園時代の名残を今にとどめています。椀を伏せたような形をした国東半島には、両子山を中心として四方へと谷筋が走り、古代にはこの谷筋に沿って六郷と呼ばれる六つの集落が形成され、そのうち半島の西側にあたるこの地には田染郷がありました。平安時代や鎌倉時代からの集落や水田の位置がほとんど変わらずに残されています。現代に入っても、親水性の小川や遊歩道的な農道を設けることにより、田染荘の景観を維持・保存する努力が続けられています。
穏やかな春の一日、車窓から田園風景を望みながら進んでいくと、顔面の神経がほぐれ、心もゆるんでくるようです。周りには、照葉樹林におおわれた山水画のような岩山が聳えています。山岳地帯に入り、落葉樹の中をカーブの多い車道を上っていきました。さらに山を越え下り道を進み、修正鬼界のお寺「天念寺」の前を通り、天念寺耶馬を仰ぐようにして西へと迂回しました。そこから県道654赤根真玉線を1.5kmほど直進して、上真玉公民館から右折して500mほどゆるやかに上り、大岩屋山應暦寺に着きました。
参道の石段を登って行くと、山門の両側に仁王像が立っていました。山門は「薬医門」と呼ばれ、瓦の重みでバランスをとった大変珍しい作りです。山門をくぐると、本堂前の境内には石畳がありました。「おがみ石」と呼ばれる曼荼羅畳石です。中央の正方形の大きい石を大日如来とし、周りを石組みで様々な石仏を配置した胎蔵界曼荼羅になっていて、仏の慈悲を表しているとのことです。大日如来の位置に立ち静かに合掌すれば、仏と一体化するといわれています。大日如来は宇宙の根源仏(神)とも呼ばれ、ヨガの梵我一如(大宇宙と小宇宙「自己」が一つになる)と共通しています。その中心に立つと力がみなぎると言われており、最近ではパワースポットとしても注目されています。
境内に配置されている石仏には、国東半島屈指の巨像「願かけ地蔵」があり、元治元年(1864年)造立で、総高5.27mです。このほか、三十三躰観世音堂や祖形五輪塔と隠切支丹五重塔、聖徳太子十六歳孝養の像などがあります。また、本堂内にも、二人の比丘が石太鼓を背負い、そして介添えする姿を一つの石で作りあげた「石造灯明像」や、役行者像など様々な石造が安置されており、まさに「石仏のお寺」と呼ばれるにふさわしい寺院です。
境内を一巡りして、本堂に入りました。ご住職や奥様に出迎えていただき、ご本尊の前に座りました。富貴寺の副住職に般若心経などを読経していただき、全員で唱和しました。その後應暦寺の住職にお寺の由来や修験道の歴史などのお話をしていただきました。峰入りセミナーの特色は、訪れたそれぞれのお寺のご住職に直接お話をうかがえることです。
天台宗應暦寺は山号を大岩屋山といい、国東六郷満山中山本寺の名刹で、宇佐八幡神の応現ともいわれる仁聞菩薩によって、養老2年(718年)に開かれたと伝えられています。現在の地には寛永2年(1625年)、両子寺で修行した僧、澄慶によって中興されました。ご住職の話によれば、もともとお寺の敷地には池があり、池の底の岩盤の上に建てられたので、朝はとても冷え、夏は涼しいとのことでした。
應暦寺本尊は千手観音で、不動明王を主尊としています。不動明王は平安時代のもので、製法が珍しく、茅の木の一木造りで刻まれており、県の有形文化財に指定されています。千手観音は以前、本堂の左側の参道を上った所にある六所権現(神社)に安置されていたものです。国東半島には神仏混合時代の様子が色濃く残っています。当時應暦寺は、修験道として、また民衆を救済する祈願霊場として栄え、25にも及ぶ末寺末坊を有していたと伝えられています。
ご住職の話の後、奥様から飲み物や手づくりのお菓子などのお接待を受け、その細やかなおもてなしに、参加者みんなが心打たれました。
お寺を出ると、山の端の向こうから顔を出した日の光がまぶしく、山々の緑の木立がきらきらと輝いていました。
案内をしていただく副住職の吹く法螺貝が山々にこだまし、散策がスタートしました。車で来た道を今度は逆方向にたどり、應暦寺から椿光寺、無動寺へと歩いていきます。500m程下って行き、上真玉公民館から左折し県道654赤根真玉線に出ました。ここからは右手に新玉川が県道と平行して流れ、左手には一段高い段丘の上に、家々とその畑や庭が続きます。庭には梅や濃いピンク色の河津桜が咲き、川の土手には、菜の花や、黄色い小さな花をつけたオウバイがこぼれるように咲いています。
(写真7)(河津桜)
無動寺下ノ坊跡、旧無動寺跡、魔よけの地蔵などを左手に見て、ときどき談笑しながらも、黙々と歩きました。一心に歩くと無心になれる。まるで歩くヨガ行です。
1km程歩くと開運不動に着きました。この前の広場で毎年4月29日に、採灯大護摩供「火渡り」行事が行われ、白装束の行者たちが歩く火渡りを見に大勢の人が訪れます。
ここから左折し、数百メートル上って行くと、国東山椿光寺に着きました。天台宗のお寺で、ご本尊は薬師如来です。境内にあった椿の大樹の跡地に弘法大師像を建立したことから、別名椿寺とも呼ばれています。
ご住職のお話を聞いた後、開運不動まで下って、再び県道654赤根真玉線まで出て東へ進みました。400m程歩くと最後の目的地、無動寺に着きました。
山門をくぐって、本堂に入りご本尊の前に座りました。富貴寺の副住職との読経の後、ここで修行されている僧侶の方に無動寺や仏さまの由来などを説明していただきました。
威王山無動寺は国東半島六郷満山1,300年の歴史があります。開基は應暦寺と同じ仁聞菩薩です。無動寺は中山本寺の一つであり、最盛期には伽藍の規模が50~60あったと言われ、常に百名あまりの僧が山岳修練の修行に励んでいたと言われています。
本堂には中央に御本尊の不動明王が配置され、その右側に大日如来座像、薬師如来座像、左側に弥勒菩薩が並んでいます。平安時代から鎌倉時代にかけての十六体の木造の仏像が安置されており、すべてが大分県の有形文化財に指定されています。不動明王は大日如来の「脇侍」として、天台宗では在家のご本尊として置かれることが多いようです。
不動明王は右手に剣を持ち、魔を退散させ、人間の煩悩や因縁を断ち切るというお姿のようです。また苦行中のお釈迦さまが自らの煩悩を打ち払うお姿とも言われています。不動明王は忿怒身ですが、このお寺の不動明王は怒りを激しく現さず、穏やかな慈悲相となっています。慈悲相は平安時代まで作られた不動明王の特徴です。弥勒仏は56億7千万年後の未来からこの世を救うために来られた仏です。とても穏やかで端正なお顔でした。
山門からお寺を出ると、振り返り、背後に聳える緑に覆われた岩山を見上げました。無動寺耶馬で、鎖場もある修業の場のようです。往時の行者たちの修行の様子が偲ばれます。古来より行者たちは岩山に登り、数多くの岩窟の中で行をつんでおられました。また、新玉川をはさんだ向こう谷にも岩山が望めます。天念寺のある天念寺耶馬です。無動寺耶馬にも天念寺耶馬にも無明橋があるそうです。無明橋は、狭くて深い岩場の谷にかかるアーチ型の石橋で、修験道の修行のために架けられています。無動寺では、天念寺参拝を含む峰入り寒行を毎年1月13日から2月2日までの21日間連続して行っています。朝4時起床、経を唱え、鐘をつき、まだ日も昇らぬうちに入山し、峰々を渡り歩く荒行だそうです。
帰りは、お無動寺の駐車場で再び2台の車に分乗し、富貴寺へ向かいました。
17時に富貴寺に着くと、宿坊「蕗の薹」の温泉で汗を流して、しばしの休憩を取り、一階で夕食をいただきました。山菜料理を中心に、副住職が作る手打ソバなど色とりどりの品々に舌鼓を打ちました。
この後宿坊「ふきのとう」の二階の広間で、首藤会長から「八幡信仰の歴史」のお話がありました。
伝説によれば、仁聞菩薩が、養老2年(718)に国東半島の各地に28の寺院を開創し、多くの仏像を造ったとされます。国東半島は古くから雑密といわれる古代山岳密教の地ですが、奈良時代末期から、平安時代にかけて多くの寺院が建立されました。その後宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺を中心とする八幡信仰、さらには天台修験道と融合しました。宇佐神宮は八幡の神を「八幡大菩薩」と称し、最初に神仏習合を実践した神社としても知られています。
首藤会長は、宇佐神宮の神仏習合以前から更に遡って、宇佐神宮の起源と渡来系の氏族との関係を明らかにし、日本人の精神文化への影響にも触れました。
最初に、国東半島の先端に位置する姫島から産出する黒曜石(石器の材料)が、各地に流通し、古代から活発に交易が行われていたことを示しているとの考え方を述べられました。
また、日本人の古代信仰についても、山や海、川、森林といった自然界のあらゆるものに霊的な存在(神)や意識が宿っているというアミニズムの世界観について語りました。また、古代信仰との関わりとして、国東半島各地に残る巨岩信仰や環状列石、宇佐神社の御許山の巨大な盤座などを挙げ、説明しました。
更に、宇佐神宮の起源は、朝鮮半島(韓国「からくに」)からの渡来系の豪族と深い関係にあるようです。『八幡宇佐宮御託宣集』の<辛国の城に八流の幡とともに天降り、日本の神となり(略)我は誉田天皇なり>との記述をあげて、「誉田とは応神の名で、これをそのまま読めば、八幡神は辛国つまり朝鮮半島から来て日本の神になったことになります。」と語りました。宇佐神宮本殿では手前から応神天皇・比売大神・神功皇后の順に祀られています。
宇佐・国東地方には、秦氏と並んで、古代宇佐で活躍した渡来系氏族に辛嶋氏がいます。「八幡大神は、もともといた豪族宇佐氏による御盤座信仰と渡来系の神々との習合した神様です」と結論づけています。宇佐の地の首長(国造)は新羅系で、その後、中央の王権から大宮司大神氏が派遣されるまで祭祀を取り仕切ったのは、同じ新羅系の辛島「韓国」氏だったようです。最後に、秦氏が残した数々の業績について語られました。
このように、外来の文化を取り入れて、融合しながら新しい独自の文化を作り上げていくというのが日本文化の特色のようです。
また、アミニズムの「自然界のあらゆるものに霊的な存在(神)や意識が宿っている」という世界観は、「山川草木悉有仏性」という日本仏教の考え方や、沖道ヨガの「あらゆる生きとし生けるものが同じ尊い生命を持つ」という沖道ヨガの教えにつながるものがあると感じました。
休憩をはさんで、池田が行法を行い、ストレッチ、呼吸法(腹式呼吸、完全呼吸)、呼吸体操を行い、最後に冥想して就寝しました。
翌朝は6時に起床し、隣接する国宝富貴寺大堂前で朝の体操をしました。手がかじかむような冷気の中で、浄化体操や呼吸体操、発声体操など行い、体も次第に温まってきました。その後、全員で富貴寺大堂周辺の外庭をお掃除させていただきました。 宿坊で心のこもった朝食をいただいた後、大堂の中で朝のお勤めに参加しました。読経の後、ご住職から富貴寺の歴史や国指定の阿弥陀如来坐像などについてのお話を聴きました。平安時代に作られた端正なお顔の阿弥陀さまの前に座ると、心が静かになり、とても落ち着きました。
最後は、宿坊の2階の和室で、池田が行法を行いました。最初は膝痛の修正行法をし、次に座禅冥想に入りました。「調身、調息、調心」の原則に従い、姿勢を整え、呼吸を調え、意識をローソクに集中し、とらわれのない静かで平和な禅定状態に入るための練習を行いました。
12時に富貴寺を発ちました。安心院ワイナリーへ移動し、併設レストランで昼食をとりました。その後、ワイナリー工場を見学し、試飲や買い物を楽しみました。
国東は、太古の昔から続く修験道の修行と祈りによって清められた聖なる場所で、神仏のふところに抱かれたような気分になります。また来年も来たいとの思いで帰路につきました。 (佐世保市 池田和博記)
感想文(コメント)
このたびのセミナーも素晴らしい経験をさせていただき、ありがとうございました。
国東の土地の波動、大堂でのお勤め、快適な宿、さまざまな会話・・・いくつかの気づきもありあした。
来年迎える還暦に向けて、どう在るかを感じる時間でもありました。
みなさまに感謝します。ありがとうございました。
気づきの一つですが、素敵な庭園のような安心院ワイナリーでしたが、宇佐神宮宮司がかつて、救いや信仰のために建てた富貴寺との違いを肌で感じました。大いなる富を掛けても、商売のためのものと、救い・祈りのためのものとは、あまりにも感じる波動が違いすぎて、とても貴重な体験になりました。(佐賀県三瀬村 小野寺睦氏)















