「さよならだけが人生だ」と言ったのは、寺山修司だと思っていたワタクシ。

 

いえ、それは井伏鱒二で、漢詩を日本語に訳したものでした。しかも、彼の詩と言っていいくらいの意訳。

 

ご存じの方はここからスルーしていただくとして、元々は唐代の詩人、于武陵(うぶりょう)の「勧酒」。

 

元の漢詩はこちら。

 

 

勧 酒

勧君金屈巵  君に勧む 金屈巵(きんくつし)
満酌不須辞  満酌 辞するを須(もち)いず
花発多風雨  花発(ひら)けば 風雨多し
人生足別離  人生 別離足(おお)し

そしてこちらが名訳と名高い、井伏鱒二の詩。

コノサカズキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ


友人と酌み交わす別れの酒杯の模様ですが、それを日本語で展開した井伏鱒二の世界も素晴らしい。
 

最後の有名な決め文句(?)も痺れますが、個人的には「花に嵐のたとえもあるぞ」に惹かれます。

 

 

 

台風通過中でも力強く咲いた苦菜の花。

 

 

なぜこの「さよならだけが人生だ」が気になったのかというと、先日友人がFBにリンクを上げていた、日本語の「さようなら、さよなら」は接続詞、といった内容のとても興味深い記事を読んでからの、脳の連想思考リレーの途中なのであります。

 

執筆者の稲葉敏郎氏は医師ですが、大学時代にこの日本語の別れの言葉について一年間かけて学んだそうです。

 

稲葉氏によると、世界の「別れ言葉」は、「神のご加護を祈る」、「また会いましょう」、「お元気で」と言った三つのパターンに分類されます。

ところが、日本語の「さようなら」はどのパターンにも当てはまらない。

 

「さようなら」は左様であるならば、からきており、「そのようであるならば」という意味になる、言葉の分類としては接続詞にあたります。

つまり、日本語は接続詞を別れのあいさつとして転用しているのです。

 

「そのようであるならば」と、ありのまま受けとめる。


別れの痛みを再開の希望で紛らわせるのではなく、また別れをただの喪失体験として終わらせるのでもなく、(接続詞ゆえに?)受け止めた過去を、未来へとつなげていく言葉、とも表現しています。

こうした日常的な言葉の中には、日本人の感性やものごとの受け止め方、考え方や哲学が特徴的に表れている。

 

それを美しいと思ったのが、アン・リンドバーグです。

 

彼女の配偶者は大西洋横断飛行に最初に成功した飛行家、リンドバーグ大佐。

 

私は以前物書きの家人から彼女の著書を教えてもらいましたが、サヨナラに関して書かれたのは別の本なので、さっそく図書館に予約しました。

 

彼女のサヨナラに感じたこと、その本に関してはつづきで書くとして、井伏鱒二の詩に戻りますと。

 

稲葉氏の記事を読んだ後では、印象が変化。

別の解釈というよりも、もっと膨らみがある一文に見えてくるのです。

 

 

稲葉敏郎氏のさよならの記事はこちらから↓

 

 

仏教的な捉え方のさよならについても述べられていて、「そうであるならば」、と手放した掌に新しく入ってきて満ちるものについても書かれています。

 

刹那と無常の連続の中で生きるサヨナラ。

 

以下は記事からそのままの、稲葉氏の一文。

連続する無常で悠久な時間を生きていることを、日本語の「さようなら」という言葉は生きた哲学として表現しているのでないかとわたしは思います。

 

井伏鱒二が訳した「勧酒」の情景には、別れのせつなさの他にも今、ここで酒杯を交わすこのひと時を充分に味わい過ごそうよ、といった空気が流れていると私は感じます。

 

そして和訳の「さよならだけが人生だ」を見つめてみる。

 

別れの儚く、悲しく、辛い面が伝わるのと同時に、そうであるならば、という優しく強いささやきが聞こえてくる、そんな心持ちになりました。

 

 

 

 

 

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