般若心経とヨーガスートラの関係を以前のエントリ で書きましたが、ヨーガ周辺を学んでいると仏教にいきあたります。

昨年の秋頃に、2人の受講生さん達から偶然に僧侶による本をふたつ借していただきました。小池龍之介氏はヨガジャーナルでの対談記事を読んだり、ベストセラーの「考えない練習」もよく耳にしていたのですが、著書を読んだのは初めてです。もう一冊はテーラワーダ仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老の、解剖学者養老孟司氏との対談「希望のしくみ」でした。

スマナサーラ長老は何冊もの著書がある、著名な僧侶ですね。私はこのなかなか覚えられないお名前を聞いたのも初めてで、仏教の源流であるテーラワーダ(
上座部)仏教の活動拠点が日本にあるのも知りませんでした。小池氏はヨガジャーナルのインタビューでなぜ瞑想するのか、という問いに対して、瞑想をしないと生きている臨場感が薄れる、という表現をしていました。彼も元々の宗派に反して古代仏教を修行されているので、お二人ともとても近いものがあるのだと思います。


OkiShanti 沖縄、ヨーガ。-monksBooks


「希望のしくみ」の中でスマナサーラ長老は日本ではお釈迦様の言葉が伝わっていない、ということを言っています。そもそも仏教は宗教というよりも生きるための智慧です、とも。そこからお釈迦様の言葉に俄然興味が湧きました。
調べてみると、有名なインド哲学者の中村元氏の「ブッタのことば」をはじめ、いろいろあります。難解そうだなー、と見ていくうちに、スマナサーラ長老の「心がスーッとなるブッダの言葉」というのがありました。アマゾンのレビューでは、長老の本を数多く読んでいる人達が彼の著書の中では詠みやすく、分かりやすい、と評価しています。読んでみることにしました。

ご自身は口が悪い、とよく言われるそうで、断定的、超達観的な調子で"「わたし」はただの錯覚"、"人生に意味などない"、"人間にはもともと社会性はない"、"祈りなんか役に立たない"などど続いていきますが、生活の上で起こる様々な悩みや苦しみから解放されるための、仏教の智慧が解りやすく書かれています。人生で意識すべき基本の事柄、悩み、生きること、人とのつながり、働くということ、幸福、を5章に分けて全部で32の短い項目にまとめてあります。その時々の個人の心身状態によって効く項目が違ってくると思いますが、今日私がこころにぐーっときたのは"自分に責任のないことは考えない"というものです。
"仏教では自分の管轄内のことと管轄外のことをきちんと分けよ、と教えます。"とあります。他人がどう考えるかは他人の自由であって、自分の管轄外である。どういうことかというと、例えば会社で上司に挨拶をしたら返事がなく、それどころかプイと横を向かれてしまった。それによって気分がふさいでしまったとしたら、それはあらかじめ結果を決めていて、それが想定外だったことにショックを受けている。他人の考えや行動、将来何が起こるのかなどは自分の管轄外のことで、「そんなものだ」と受け止めるしかないのです。そうできないのは傲慢です。自分と自分以外の管轄の境目がはっきりしていなかったり、間違っている「管轄違反」は至るところにあり、夫婦間でもよく見られる。こうあるべき、と思えば相手を管理することにもなってしまう。お互いに相手を独立した人間同士と認め合い、日常の何でもないことにもお互いに感謝の気持ちを持つのです。

ごもっともなご意見ですが、なかなかそのようにスパッと考えられない場合も多いのではないでしょうか。私は昨日パートナーにひとこと言ってしまいました。

彼は今体調を崩しており、長引いています。昨夜ようやく少し食欲が出て、果物とお粥以外のものを夕飯に取りました。ここ数日いただきものの野菜など食材が豊富にあり、食べる人がいないのに料理をたくさん作っていたのです。水曜日は夜のクラスが無いので、少し消化してもらおうと仲良しに夕飯に来てくれるよう連絡し、風邪引きのパートナーも食卓に付きました。もっと甘くしたのが好きだと言われていた鯖の味噌煮は、彼の好みの味付けにしてみたのですが、それに対しての彼の何だかそっけないリアクション。どうしてありがとうと言わないんだろう、という感情が沸いて「もう少し思いやりがあってもいいんじゃないの?」と言ってしまいました。

ここまで読んでくださったみなさま、このようなツマラン展開で申し訳ありません。ですが今日しみじみ思いました。料理を精一杯したのは私の管轄内、それに対するリアクションは私の管轄外。傲慢な期待を持たなければ、ちょっと無関心なリアクションに対しても「まだ調子が悪いんだね」というだけで終わったのでしょう。

うーん。なかなか日々の煩悩から自由になれません。



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