こんにちはオキラクです。


突然ですが、みなさんは自分のご先祖さまを何処まで知ってらっしゃいますか?

一番簡単に調べる方法として自分の戸籍謄本を辿っていく方法が一番簡単です。現在の戸籍の原型は明治19年に制定されたのが始まりで平成22年迄は戸籍の保存期間が80年と決められていた事から、除籍や改正原戸籍となった昭和5年以前の大正や明治の頃の除籍が廃棄の対象になります。平成22年以降は150年に延長されました。法律で決まった事ですが、意外と各自治体で保管期限がバラバラなので、それ以前まで遡れる可能性はあるとの事ですが東京大空襲があり、当時の法務局や役所が燃えてしまう事もあったので、地域差はかなりあるようです。

明治19年以前を調べるには、明治3年の壬申戸籍ですが、記載内容に差別的な記載もあり公開されていません。それ意外は各家々で戦火を逃かれ丁重に保管されていた先祖代々の記録や書物、家系図に、寺請制度による菩提寺の過去帳なども参考になるのではないかと思います。

オキラク家のルーツは昭和30〜50年頃に祖父が伯父や曽祖母から聞いた内容を記録した資料以外ありません。

戸籍等の書類を辿れば簡単ですが、下の告知書は曽祖父の戸籍を調べた時に、港区が発行したもので、先程の除籍の廃棄により調べられないと記載あります。
先祖代々都心に住んでる方も東京大空襲による戸籍焼失等で大体こんな感じで行き詰まってしまうのではないでしょうか?

今回祖父、父が調べた記録をオキラクがネットや国立国会図書館デジタルコレクションの文献を参考にしたり、自治体等、個人の方のサイト等の資料を参考にして検証しました。

先ず、記録がある程度はっきりしている曽祖母側の高祖父について調べてみます。

祖父母から高祖父母迄
高祖父(江戸後期不明〜昭和12年)
高祖母(明治元年〜昭和24年)
曽祖母(明治18年〜昭和50年)

曽祖父(明治16年〜大正3年)
祖父   (明治40年〜昭和58年)
祖母   (明治42年〜平成20年)

オキラクの曽祖母側の高祖父の名は宮下文次郎と言います。江戸後期の生まれ。時代は幕末から明治維新の真っ只中。明治4年の廃藩置県以降、国民皆兵による徴兵制により次男であった文次郎は、跡継ぎの居なかった中村家の戦争養子となって中村文次郎と名乗ることになった。宮下家(中村家)は静岡には行かず大久保に残ったと記録にあり、その後港区浜松町近辺に移住。

宮下家は百人町にある長光寺が菩提寺。宮下家の親戚には他に鈴木、横井、木村の三家がおり皆、幕末迄大久保に住んでいました。

長光寺は大久保百人組の組屋敷(大縄地)の一角にあり、大久保百人組の同心と深い関わりがあるお寺さんです。
下の地図は大江戸古今めぐりより、現代と江戸時代の地図を見比べる事が出来るもの。大久保駅に新大久保駅の一帯が百人組同心の大縄地となっています。

大江戸今昔めぐり江戸時代末期の朱引きを網羅した復元古地図を「完全描き起こし」で再現!現代の東京の地図と切り替えながら閲覧できる地図アプリです。リンクwww.edomap.jp


他に茨城県の涸沼(ひぬま)周辺(昔の知行地)のことについてまとめている個人の方のホームページに二十五騎組の与力同心の名前を記録してありました。

この記録の名簿は、以前オキラクが調べた、新大久保にある皆中稲荷神社の常夜灯、明治4年寄贈の記録の名簿と同じ名簿だったと思われます。

新大久保にある皆中稲荷神社


与力

青山雲平、石橋三郎兵衛、池田作左衛門、岩田喜内、宇治弥五衛門、大須賀与太夫、小川伝右衛門、大塚兵右衛門

川上六郎、加藤次郎左衛門、木呂子清兵衛、窪田新五兵衛、楠庄右衛門、近藤市左衛門、小林与八郎、杉山源五左衛門、武井十郎左衛門、多田兵左衛門、高須伊右衛門、遠山金兵衛、藤田七郎兵衛、堀口与右衛門、牧野東十郎、

松井助右衛門、山条藤九郎、安間庄左衛門、吉村又一郎、吉田五左衛門

以上28名


同心

秋山助五郎、朝倉兼吉、芦原宗平、飯島武右衛門、飯島鐐一郎、井浦栄太郎、井浦春次郎、井浦良太郎、石田福太郎、石野虎吉、伊藤伴次郎、上田織右衛門、羽山岩吉、太田次郎、大野平右衛門、岡地次郎、岡部豊次郎、岡本友之助、岡本房太郎、小倉貞之助、小津弁吉、川角兼吉、川村庄之助、川本三四郎、木村初之介(助)、菊谷銚太郎、木崎鋼次郞、北脇大次郎、木村伝四郎、工藤音蔵、幸村銀次郎、小林鉄三郎、小塚嘉十郎、幸村綿次郎、榊原虎五郎、佐藤鍔三郎、沢田田次郎、塩谷市三郎、下田源太郎、新藤邦之助、新藤貞三郎、須藤藤内、鈴木源蔵、須藤熊次郎、関常太郎、高橋善次郎、滝田喜太郞、竹尾忠蔵、田中猶之助、田中政太郎、土屋吉兵衛、土屋喜太郎、土屋吉兵衛(重複?)、土屋清吉、土屋鉚三郎冨岡弥右衛門、中嶌顕輔、中野清三郎、中根清次、中村織右衛門中村丈七、成瀬覚五郎、西野米太郎、速水銚之助、福森金太郎、福森六左衛門、藤井忠五郎、船田金十郎、細井麻蔵、堀内兼太郎、本間熊太郎、本間松蔵、松本儀左衛門、松本定之助、三浦美貴之丞、三橋与三郎、宮崎金太郎、宮下文次郎、村井善之丞、村田久五郎、森源蔵、柳沢次郎吉、山田助太郎、山田平次右衛門、山本悦之助、山本長蔵、横井鈴太郎、横山文三、若林利助

以上89名


この名簿には宮下文次郎以外に、木村家、横井家、鈴木家、中村家があり、中根家も何らかの関係があったと聞いている。

国立国会図書館デジタルコレクションより大久保百人組屋敷図 これは旧幕府引継書として作成されたもの。

図の右下、今の新宿職安所辺りに組頭万世三四郎の屋敷があり、向かいには長光寺があります。

え組角場地(鉄砲練習場)脇に宮下文次郎の名の組屋敷があり赤字で1,137坪とあります。

一区画は間口約18m奥行約360m程で約2,000坪が同心1人に割り当てられていたようです。大角場地は大砲練習場。


文次郎からの聞き伝え。
徳川さんが千駄ヶ谷に住んでいた頃、信濃町の道場で徳川さんの子供達に剣道の稽古をつけていた。親父達が仕えていた人に俺たちもまだ仕えていると聞き伝えがある。

御維新後、明治元年に徳川家達が静岡に移る時、木村家、横井家、鈴木家は一緒に静岡へ移住。
移住先は当時の駿東郡揚原村上香貫中原◯◯(現在の沼津市)と記録にはあり、静岡の連絡先として鈴木万(萬)吉郎宛となっている。木村家と横井家はその後、東京に戻ってくるが横井家、宮下家は長男に子種無く断家となった。

文次郎の母方の旧姓は木村。文次郎の従兄弟には木村金弥と言う人物がいた。
木村金弥は海軍兵学校を明治25年第19期卒業。下の記録には2/50と50人中2番の次席卒業で静岡は出身地。最終階級は大尉。同期には後の海軍大将百武三郎がおり、首席で卒業している。
1890年(明治23年)和歌山県沖で遭難したトルコ船エルトゥールル号について、軍艦金剛航海記事、海軍水路部1897年発行の著者に生中小次郎第9期と木村金弥第19期あり。
木村金弥と百武三郎は共に攻玉社卒業。当時、攻玉社は現在の港区浜松町1丁目辺りにありました。
広瀬武夫史跡17東京福沢・近藤両翁学塾跡(攻玉社跡)リンクmurakumo1868.web.fc2.com当時の攻玉社は海軍兵学校に行く為の養成塾であり、当時海軍兵学校は築地にあり、明治21年に広島の江田島へ移設。

又、荒川重平という沼津兵学校、海軍兵学校に関わった旧幕臣の下記回想録の抜粋の中。左から2行目に旧幕人生徒木村金弥他の名前があり明治25年7月26日に海軍兵学校を第19期で卒業した他4人も旧幕人生徒として卒業を祝ったとあります。
余談であるが、
木村金弥が攻玉社に入学する時、静岡から東京の文次郎宅を訪ねてきた。そこで親戚の誰かに[田舎もんが学校に行って何になる!]と言われて大層怒ったとあり、日清戦争出兵の時に[木村金弥君!万歳!]と叫んだと書いてあった。

以上がオキラク家の曽祖母側の高祖父の記録と検証になります。

高祖父の文次郎が亡くなったのは昭和12年。曽祖母は父の文次郎や母から聞いた話しを祖父を通じ記録として残し、オキラクがネット等でその記録内容を検証。
宮下文次郎の記録や従兄弟の木村金弥の記録を検証してみて曽祖母の話しは史実と整合しており、オキラク家のルーツの一片がわかった事は大きな収穫となりました。


追記
宮下家は士族と言われていたが、当時の幕臣は足軽含め皆士族であった。同心=お目見え以下の御家人であり下級武士。

鉄砲百人組は1601年〜1862年(文久2年)に廃止となり講武所奉行扱いへ編成。与力は騎兵組、同心はお台場の大砲組へ。当然幕臣ならば徳川幕府と新政府との各地戦いにも参加したのであろうし、同じ大縄地に住む仲間や親戚同士行動を共にしていたのであろう。
下の図は講武所扱いから旧幕府陸軍へ移行し、その後沼津兵学校迄の改変の内容。

城岡神社内の碑




鉄砲百人組について

大久保百人組は伊賀組とも二十五騎組とも言われていた。江戸幕府初めの1601年にそれぞれ編成されている。譜代の百人組の甲賀組は青山、根来組は市谷とはっきりしているが、内藤新宿と大久保には伊賀組と二十五騎組のどちらなのか?色々な記事を調べるがはっきりしない。二十五騎組が内藤新宿と大久保の大縄地に居たのが有力となっている。そうなると伊賀組の大縄地が何処にあったのか?

伊賀と言えば忍者ハットリくんで有名な服部半蔵であり、江戸城の半蔵門もそこから来ている。

オキラクの先祖は伊賀の忍者?
嫌々…

色々と伊賀組について調べてみた。元々は半蔵門近くの麹町付近に組屋敷があった様だが、江戸城の拡張により伊賀衆達は立退となり、四谷三丁目付近の南伊賀町、四ツ谷忍町に伊賀衆の組屋敷を構える。しかし古地図で観るとそこは御先手組大縄地となっており、町名だけが残っている。
それ意外にも赤坂の一ツ木通り辺りに伊賀者給地とあり、調べると山里口を守る伊賀者の給付地だったようだ。
四谷から信濃町迄の若葉や南元町辺りには
伊賀者給地が点在しています。
伊賀衆(者)は鉄砲百人組以外に色々な役目があった様である。
①小普請…ご普請の勤怠管理
②明屋敷番…空き家の管理
③御広敷番…大奥取次役人詰
④山里口…西丸の内山里庭園の非常口守備

隠密的な役割として諸大名の動静を探る仕事にあたったとされている。
国立国会図書館デジタルコレクションより嘉永4年1851年の嘉永武鑑に百人組之頭として4人の組頭が載っていた。
武鑑とは武士の紳士録的な要素があった。

①横田筑後守、
与力25騎同心100人
組屋敷はよつや

②三枝宗四郎
与力20騎同心100人
組屋敷は青山甲賀丁、大久保十キ丁?

③牧野兵庫
与力20騎同心100人
組屋敷は青山百人丁

④白須甲斐守
与力20騎同心100人
組屋敷は市谷…?牛込…?

広義では伊賀組(大久保)二十五騎組(内藤新宿)甲賀組(青山)根来組(市谷)の4つの組で編成されていたと広く言われているが上の武鑑によると、青山に2組の百人組が存在することになっている。

安政6年1860年の大成武鑑より…
なんと!

①甲賀組の組屋敷
青山甲賀丁(神宮外苑付近)
大久保十騎丁?(大久保番衆町?)
出勤日、子、辰、申ノ日

②根来組の組屋敷
市谷加賀屋敷(市谷加賀町付近)
牛込原丁(牛込柳町付近)
出勤日、丑、巳、酉ノ日

③伊賀組の組屋敷
青山百人丁(南青山表参道駅付近)
出勤日、寅、午、戌ノ日

④二十五騎組の組屋敷
よつや(内藤新宿、大久保付近)
*江戸の頃は四谷見附から新宿三丁目辺りまでを四谷と言った。
出勤日、卯、未、亥ノ日

これで伊賀組と二十五騎組の謎が判明しました!大久保百人組は間違い無く二十五騎組となります。また記載には各組の出勤日である干支の日も書かれています。

確認の為、他の年号(天保13年頃)の武鑑も調べましたが、記載は全く同じくで伊賀組は青山百人丁で間違いないです。

甲賀組の組屋敷に大久保十騎丁とありますが、大久保番衆町との事だそうです。

天保の頃の大成武鑑。出勤日は安政6年とは変わっています。


百人組のうち
甲賀組と根来組は譜代席で代々継承し切絵図には甲賀百人組与力同心大縄池、根来百人組与力同心大縄池とある。

一方の伊賀組と二十五騎組は抱席であり一代限り。大久保百人組(二十五騎組)と青山百人組(伊賀組)となっていたんです。

オキラクのご先祖さまは伊賀の忍者で無かったのはとても残念ですが、これで鉄砲百人組についてははっきりしました。

二十五騎組は伊賀、甲賀、根来と言った由緒が明確で無く、色々な年代で各組頭のお抱えとなった与力や同心であったと思われます。一代限りとは言いながらも、文次郎の話から考察すると世襲の譜代との見方もできます。
オキラクのご先祖様は江戸時代のいつ頃なのか定かで無いが三河周辺から江戸に来た事は間違い無いようで、祖父や父が昔からよく言っていた「オキラク家は30俵二人扶持の下級武士の御家人(足軽、同心)」であったことは間違いなかったようです。

甲賀組考(おまけのおまけ) : たまーに書くから甲賀組に限らず百人組の人たちはどこに住んでいたのか。インターネットで検索するといろいろと出てくるがどうも怪しいので調べてみた。幕末に限って言えば国立公文書館に諸向地面取調書がある。そのなかで百人組与力同心があってそれを見るとそれぞれの組がすんでいた場所リンクblog.livedoor.jp

この方のブログは大変参考にさせていただきました。二十五騎組の名簿にしても、大久保十騎丁の事もよく分かりました。ありがとうございます。