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昨日見て来ました。
…が、これは、見ようかどうしようか、かなり迷った映画です。
何しろ、長いのです。
 第1部 太陽旗…144分、 第2部 虹の橋…132
近くの吉祥寺で見たのですが、第1部が16:10~18:40、第2部が19:00~21:15、
つまり途中で20分ほど休憩をはさみますが、約5時間もかかるわけです。
(ちなみに東京都内では、吉祥寺のバウスシアターと渋谷のユーロスペースでしか上映していません)

でも、どうしても気になったのと、レビューが結構いいので、近くだし、行ってきました。

1930年代に、日本が台湾を統治していた時に起こった「霧社事件」を元にした映画です。
出演者のほとんどが現地の原住民・・・主人公の頭目であるモーナ・ルダオ役の壮年期を演じる役者っさんは、役者さんではなく現地の牧師さん・・・とありますが、とても信じられないくらいに演技もうまく、威厳もあります。

霧社事件については、全く知らずに見ました。
まあ…昔の画位置での日本人の非道さは今までも色々な映画や小説、ドラマでも取り上げられていますから、その点については今更、とも思いますが、
この作品は、台湾出身のウェイ・ダーション監督が、「文化と宗教の戦い」として描いた、と言っているとおり、まさに狩猟民族と農耕民族という文化の違いからくる考え方、宗教観の違いが描かれていて、どっちが正しいとか、良いとか悪いとかでは測れないものがあると思わされました。

セデック族は、自分たちの狩場を荒らした敵(同じセデック族の別の集落)の首を狩ることで真の勇者とされ、死んだあとに虹の彼方にある、祖先たちが守る狩場に行くことができ、勇者にならなければ、虹を渡ることができず、祖先たちの待つ家に行けない。
日本統治下では、一族の結婚式の時だけ銃を使う許可を得て狩りに行くだけで、当然他の集落の者との争いはないので、首を狩ることもできず、若者たちは勇者にならぬまま年をとっていくことになるわけです。民族として生きながらえても、子孫にセデックの魂を伝えることはできない・・・

モーナ・ルダオの息子の結婚式に、1人の警察官が訪れ、ささいなことから殴り合いになってしまいます。これが直接のきっかけとなって、モーナ・ルダオの集落とその他6つの集落があつまり、決起することになります。

見始めたらいきなり「首狩り」のシーンで、
コレってどうよ?…と思いましたが、
日本でも、敵の武将の首をもちかえることはあったわけで、
考えようによっては、ギロチンと同じ、一番即死に近い殺し方なのかも。

とはいえ、敵の首を狩らないと勇者になれない、という時点で、他の集落とも平和に付き合うようになったら絶えていく慣習なんじゃないでしょうか。
もっとも、狩場は、みんなで狩り合えば獲物は減っていく宿命ですから、自分の集落のためだけに守り抜く必要がある限りは、奪い合い=平和にはならない=首狩りをして勇者になれる、のかもしれませんが。でも、人口が増え過ぎたりすれば、勇者になれない(狩る首が足りない)場合も出てくるでしょうし、意外と難しいバランスの上に保ってきた慣習なのかも。

だいたい、どうしてセデック族が日本の統治下になってしまったかというと、
中国が日本に「台湾をあげます」って調印しちゃったからなんですよね。
日本は「わが領土が増えた」と、まあ、当たり前って言えばそうなんですが、
ただ・・・台湾の土地は(仮に)中国のものだったとしても、そこに住む人たちは中国のものではなかったわけで、当然に日本の統治下にはいるわけではない・・・と思うんですが、そんな理屈が通用するわけもないですね。

見る前に予想していたより、意外に短く感じました。