甥っ子が
日本へ独りで
やってきたのは
このころだったかな ↓
もう一度会いたい
うちの
娘が3歳位
だったから33年前?
ニコニコ
と笑顔をみせて
こっちの大胸筋を
パンパン叩きながら
「マッチョ」と言っていた(笑)
耳が
潰れているので
格闘技やっているんだなと思い
母親である
妹に訊いたら
アマレスで州の
ハイスクールチャンピオンに
なったけどカレッジレスリングは
レベルが高すぎて諦めてしまったらしい
残念だな
沖縄空手を
やって欲しかった
自分みたいに
OKINAWA への
思い入れはないか(苦笑)
でも
2人いる
娘たちには
誰か日本語の
わかる人に頼んで
ひいお祖父ちゃんの
書いた手記↓をぜひ読んでやって欲しい
そして
8分の1だけど
この
グラン・グランパの
OKINAWA の血が
入っていることを
キチンと伝えてほしい
生きて還ったぞ
昭和17年4月、満開の桜のもと、これまで延長していた徴兵検査を受ける羽目になった。
受けた場所は東京の蒲田区役所で、結果は『第一乙種合格』であった。
(略)
十時二分、敵潜水艦の魚雷である。
(略)
船が沈んだだけでなく、積んであったガソリンのドラム缶400本が次々に爆発し、海上一面火の海と化し、戦友は次々と炎の中に吸い込まれていく。
不幸にも風下で泳いでる結果となり、火は刻一刻と泳いでいる集団をすい込みつつ私達に迫ってくる。
『あと20 メートル、あと10 メートル、ああもう駄目だ』と思ったとき、立ち上る炎の中に『お母さんの顔』が大きく私にははっきりと見えた。
途端、不思議と言おうか燃え盛っている炎は、母の顔のところから二つに割れ、私たちの一軍を迂回するようにして通り過ぎたのだ。
火の谷間を、幸いにして抜け得た一群の者だけが助かった。
助かったという安堵からか、私が『海行かば』を口ずさんだら、これが次々に広がり生き残った何十人かの泳ぎながらの大合唱となり大海原にとどろいた。
(略)
約五百人乗っていた者のうち、助かったもの五十人と聞かされた。
(略)
昭和三十二年、私が×××××××所長をしていた当時、××区医師会との会合の際、たまたま戦争の話しとなった。
××県××出身の××副会長の話によると、
『私たちの部隊は実に悲惨だった。
今思い出しただけでもゾッとする。
私の乗った船は無事だったが、今一隻は魚雷をまともにくらい、撃沈されあっという間に全滅だった。
あの火の中から生還した者がいたら、今一度抱き合ってみたい』と話しをされた。
(略)
それは『×××部隊』でしょうと大声で言って、『その生還者の一人は私である』と言ったところ、××先生は『アッ』と大声を発して抱きついて来た。
『よく生きていた、あの火の中でどうやって生きていたか』と涙を流さんばかりに驚かれたのも、十五年前の思い出になった
昭和四十七年十二月一日
平成十三年一月
父のマブイは沖縄に還った・・・合掌