おきなわ60年70年代
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もうすぐ短い秋がきます

沖縄の秋は、ほんとに短い間です。

人によっては、いつからが秋で、いつからが冬かと、意見の分かれる事でしょう。

私自身は、11月3日から次第に冬に向かうと、思っています。


11月3日は、「文化の日」

住んでいた「首里」では、「首里文化祭」というお祭りが行われます。


お祭りが終わったあたりからの「風」が、「冬」に向かう風だと感じます。


「首里文化祭」の話は、又、別の機会にお話をするので、「短い秋」の話をひとつ、



「秋」 といえば 「運動会」


小学校の運動会は、10月に行われていたと記憶しています。

運動会の日には、新しい「体操着」を「買ってもらえるかもしれない」との

わずかな期待にわくわくしたものでした。

そして、あわよくば、靴まで買ってもらえたら、本当に「うれしさいっぱい!」おおはりきりでした。


まあほとんどが、「赤白帽」のみ、みたいになるんだけど、、、


それでも、母親が、遅くまで、お弁当の仕込みをやっているのを

こうふんして眠れなくて、2、3、回起きる度に見て、更にわくわくしたり

隣の兄ちゃん達が、暗いうちから、「場所取り」にでかけるあわただしさを

ねぼけ半分で見送ったり、いやがおうにも 「本番」に向けたセレモニーが

子供達の気持を、ますます掻き立てるのです。


そして、「本番」は、  一生懸命、走り、演技し、

みんなでお弁当を食べ、お菓子もたべ、又、走り、競技し、

最後の「ラジオ体操」にて、「今年も秋がきたんだなー」と、なんとなく思ったものでした。


「運動会おわりの歌」を歌うと、赤とんぼが飛び始めた青い空も、夏とは、違い

とても高く、遠い空に感じたものでした。


今年も「靴」は、買ってもらえなかったけど、「走り勝負」は、一番だったなー



一生懸命走ったなー



海のみえる教室

小学校は高台にありました。

校舎の3階の教室の窓から

ずーっと遠くの海がみえました。

子供ながらに「今すぐ空を飛んであの海に行きたい」!と

授業を進める先生の声もおぼろに

飽きることなく見つめていた事がよくありました。


どれくらい遠いんだろう。

同じくらいの子供がいるのかな。

どんな砂浜なんだろう。

魚は、いるかな。


今となっては海のあった場所も見当がつきますが、

整備された港となり、あの頃の風景ではありません。


まだ、しっかりと覚えているあの海岸は大切な思い出、「たからもの」です。

パッチーとビー玉

5歳頃から10歳頃までの遊びのメインはパッチーとビー玉でした。

本日はパッチーの話から。

パッチーはメンコのことですが、あの頃のパッチーは幅3センチ長さ5センチほどの厚紙で

表にイラスト、裏にイラストの解説&じゃんけん絵柄があった記憶があります。

遊び方はいろいろで地域によってルールも異なっていたようですが、 基本は

同じ枚数を出し合い、重ねたものを 交互にドン(親分)パッチーとよばれる自分の打ちつけ用

メインパッチーにてひっくり返し、表裏が1枚ずつ重なった時点で勝ち!といゆうものでした。


イラストには当時はやりの漫画が主でした。

「鉄人28号 怪傑ハリマオ 鉄腕アトム ウルトラQの怪獣 忍者部隊月光」 等々

今、思い出すと本当になつかしく、コレクションにしとくんだったと後悔しています。


いつも学校帰りに友達と集まっては「ぱちん、ぱちん」とやってました。

一人平均30枚から50枚くらい持ち歩いていて、ポケットはパッチーでふくらんでました。


家には、菓子の空き箱を利用したパッチー箱があり300枚くらい保管してたと思います。

友達の家に遊びに行き、自分より多くのパッチーを見たりすると ライバル心がメラメラし

その後の勝負に熱が入ったものでした。

今、あの頃のパッチーを「見て、さわって、ぱちん」としてみたいです。

だれか持ってないかなー?   ぱっちー、、、、


みんな貧乏、おやつは何?

みんな貧乏、おやつは何?
みんな貧乏 私も含め、
タイトルどうりみんな、貧乏だった。
それでもみんなが平等に貧乏なので
特に意識はしなかったのだろう
遊ぶ道具は手作りか兄弟のお下がり。
季節に応じていろんな遊びをしてたなー。

遊ぶとお腹がすくよねー。
と、いう事で、当時のおやつをごしょうかーい!


①粉ミルク
当時はあちらこちらに赤ん坊がいました。
自分の兄弟たちも赤ん坊という事で
親に見つからないように
スプーンで4,5配分の粉ミルクをビニール袋に入れ、
ポケットから出しては舐め、出しては舐めのご馳走でした。

②トマト
遊ぶ所は畑の側、
トマトを作ってた畑が多かった事もあり
まだ青いトマトをちぎって食べてたなあ
今思えば多分農薬の撒かれてたトマトだったはず!
洗って食べた記憶がないので、
薬漬けのものを口にしてたってわけ、、、、
でも不思議と誰もお腹を壊すことなく
ましてや死ぬこともなかったなー
平気だった。

③せみ
おきなわのセミは5月頃からみんみん蝉が鳴き出し
7月には、クマゼミがサンサンと鳴く。
そのクマゼミがおやつになりまーす。
(気持ち悪いとは思わなかった)
もちろん、ゲテモノ食いみたいに生では食べません。
調理法をご紹介しまーす。がはははは
まず、上等なかまどはブロックを用意します。
なければ、石を積んでかまどを造ります。
そのかまどに空き缶をのっけます。
空き缶の中にせみを4,5匹入れます。
(それくらいの小さな缶を使ってた)
かまどに新聞紙や枯れ枝で火を起こし
セミが焦げはじめたら、
取り出します。
食べるのは羽の根元の筋肉みたいになった所
ほんの少しの部分です。
丸かじりって思ってた人ははずれです。
おいしいという記憶がないので、まずかったのでしょう。
多分火を起こして調理するのが面白くて
やってたんだと思う。
今は、、、、できんねー!

④バナナ
バナナといってもモチロン、スーパーで売ってるような
モンキーではなく
沖縄にたくさん自生してた「島ばなな」です。
モンキーよりもかなり小ぶりですが
むちゃくちゃ甘くておいしいです。
沖縄土産でパイン園に行き、パインの詰め合わせを
買ってる方が多いけれど。
ぜひ、普通の「商店」(スーパーには無いと思う)
でぶらさがってる「島ばなな」を味わって下さい。
パインを買うのがあほらしいくらいのおいしさだと思います。
残念ですが本土には持っていくことができないと思います。
おやつとしては最高のものですが
みんな先を争って取ってたべるので
ほんとに熟して食べ頃のものはまれだったように思います。
今でも、商店にぶらさっがってるのを見ると車を止めて、
買ってしまいます。
あの頃とちがって、
ちゃーんと熟したおいしい「島ばなな」が食べられるんだから。


おやつの話は尽きませんが本日はここまで。

沖縄紹介しまーす。

沖縄紹介しまーす。 私は、1960年に沖縄県那覇市の首里城のある町に生まれました。当時の沖縄は「琉球政府」としてアメリカの管理のもと、本土と切り離された独立した、基地の島という状況でした。島民は戦争が終わり、新しい時代に向かって、貧しくとも希望を持って生活をしていたと思います。私をはじめ、子供たちはじりじり照りつける太陽の下で目と、歯だけが妙にギラギラした風貌で、大人たちの間を走り回っていたのでした。 これから、沖縄の60年代、70年代のことを私なりに回想しながら、少しずつご紹介していきます。興味があればお付き合いください。 尚、歴史書ではないので正確な日付け等はあいまいです。ご了承下さい。 名前は琉球にちなんでリュウとしときます。リュウのたわいのない話にすこしばかり時間を頂ければ幸いです。