田中弁護士が拡散希望を出されていたので観ました。二世の愛を感じたのでリンクを貼らせていただきます↓


わたしは自らの生きづらさを母のせいにして生きて来た人間です。

あまりにもその生き方が長過ぎて、頻度は格段に下がったとはいえ、母への憎しみはいまでもふと沸き起こる。

もう決してJWにならないわたしの在り方をみて、母や妹たちはわたしのことを「サタン側の人間」と言います。

自然栽培を学ぶまで、わたしに対するこうした評価をわたしはとても恐れていました。


自然栽培を学んで、悪は悪ではないことを知った。この認識の大どんでん返しは、わたしの生き方を変えました。

サタン側と言われることに抵抗が起きない。というか、わたしを「サタン側」と言いたいんだね、という感じです。


自分にとって都合の良いことに感謝するのは簡単ですが

自分にとって都合の悪いことにも感謝が湧くに至ることは、

仕組みを知らないことにはハッキリ言って無理です。

しかし、悪を無くしたい、苦痛を無くしたい、と願う人間にとって極めて重大なポイントがここにあるということ。


先日、友人から預かる物がありどうしても会わなければならない日に頭痛になりました。

起きてはいられるので、ランチの約束はキャンセルさせてもらって待ち合わせ場所に出かけました。

そうしたらたまたま何年も会っていなかった知人に次々と行き合って、みんなにこやかに「久しぶりー!」と話しかけに来てくれた。

今日来てよかった、とまで言ってくれるひとも居て。

でもわたしはどうしてもブスッとなってしまう。申し訳なくて「今日は頭が痛くて」と話したのです。

そうしたら「頭痛に効くハーブ持ってる!」「座るところがあれば楽になるマッサージ出来るんだけど…」「ヒーリングしておくね」と口々に対処対策が返って来ました。

そうかこうなるのか!と思いました。


「みんなありがとう。お気持ちだけいただくね。」と言って用を済ませて帰ったのですが、複雑な気持ちになりました。

対処対策はわたしにとって悪が無くならない根本。しかしそれを差し出してくれるひとたちは思いやりがあって優しい気持ちのあるひとばかり。


わたしがこの人たちにいいたいことはなんだろう?

「わたしはこの頭痛を対処せずに乗り切った先が楽しみなのよ」かな。