どーも、杉丼です。
いつぞやの記事の続きです。
まず、前回の記事ですが...感じてることをぶつ切りで書きすぎて、
よくわからない内容になっちゃってます。すいません。

草の根通信

今回はシンポジウム後に見学した震災アーカイブセンター「きおくみらい」での感想です。
中越沖地震のアーカイブ的な事業は僕も関わっているので思うのですが、
「よくここまで資料が残っているなー。」という印象です。
震災時の写真はもちろんの事、
震災時の傷が残ったままの時計や家具、
映像コンテンツもたくさんありました。

草の根通信

草の根通信

草の根通信

大きな航空写真の上をipadをもって歩くということで最初は注目を集めていましたが、
僕が驚いたのは「そんなところの情報まで残ってんのかー。よく集めたなー。」というところです。
トンネルの復旧工事から開通までの映像とか見たときに、
「誰が撮ってたんだよ。工事現場の記録映像をもらったのか?」みたいな。

話は飛びますが(悪い癖で)近年の自然災害は生の映像などがものすごく残っています。
NEWSで関東の竜巻の状況を見たときは、撮影地点を地図にプロットしていろんな方面から被害状況を放送したり、携帯電話に高性能な動画撮影機能がついたことで被害当事者がものすごく記録を残しています。しかも、プロと違って自分の焦っている声や周りの騒音なども入りまくっていてものすごく生々しかったりします。僕はマスメディアはあまりいい印象を持っていなかったりします。どれが本当のことなのかわからなかったり、弱いものいじめが多いからです。ですが、災害時などの状況を正確に伝える手段としては、非常に期待しています。その事態に多くの人が共感し後の支援につながるからです。

さて、災害の「記録を残す」事は本当に必要なのでしょうか?
僕も最近まで「昔の辛かった出来事は忘れた方がいいんじゃないか、残すのはそのときの個人の記憶を引きずるだけだよな」と思っていてました。沖ネットでも中越沖地震の被害写真を掲示したりする機会がありますが、なにか申し訳ない気がしたりしていました。ですが、最近は「記録を残す」ことの意義も自分なりに理解してきました。東北の地域では沿岸部に数十メートルの防波堤を議論がおこなわれているらしいです。ですが設備で身の回りを固めるのは安心感は生まれても、今回みたいなさらなる大きな想定外の被害が来たときに対応できません。僕らが災害時の嫌な記憶をわざわざ掘り起こすのも、設備で固める防災よりも身を守る意識とノウハウを伝えたほうが真の意味での防災につながると思っているからです。

長々と書いていますが最後に、
長岡地域は本当に震災をいう大きなアクシデントをバネに、
地域を次のステップに押し上げている地域だと感じました。
それはアーカイブセンターや駅前の再開発などの大がかりな設備などではなく、
市の広報に地域でおこなわれている復興行事が特集されていたり、
もっと簡単な意識的な部分です。
中越沖地震も今年で5年を迎え一つの区切りを迎えました。
5年経ったからやめる。のではなく、もっと自然な形で次に伝える方法を僕らも考えていかねばらならないと感じた今日一日でした。
おわり。