先日、祖母の兄(ぼくの大伯父)と曾祖母の弟(ぼくの曾祖叔父)の二人の軍歴証明書を取り寄せました。




二人とも太平洋戦争に従軍し亡くなっています。





軍歴証明書については、別の記事でも少し触れましたが、簡単に言うと



戦争に従軍した人の招集から除隊までを記録した文書



のことです。



この記録資料により、



・いつ入隊したのか

・どこの港から出港したのか

・何の戦いに参戦したのか

・どこでどんな風に亡くなったのか



など、その人の戦争の軌跡がわかります。




軍歴証明書をもとに、二人がどんな風に戦って亡くなっていったのか、二人の戦争の記録を紐解いていこうと思います。

こういうことって風化させたらダメだと思うし、誰かが伝えていかないといけないと思うので。

伝えるぐらいしか出来ないけど、、




まずは、祖母の兄の軍歴証明書から↓



右上を見ると、兵種は歩兵とあり、
その横に現役志願兵と書いてありますので、志願して兵隊に行ったようです。


真ん中のところを見ると

二等兵→一等兵→上等兵→兵長→伍長

と本人の等級の記録が書いてあります。


戦死したのは、
昭和19年(1944年)8月2日


と書いてあり、

履歴をさらに細かく見てみると……




★昭和18年(1943年)
4月10日、歩兵第114連隊要員現役兵として歩兵第〇〇連隊補充隊第○中隊に入営。
7月31日、歩兵第114連隊転属のため門司港出航。
12月29日、歩兵第114連隊転属。
同日、連隊本部編入。
歩兵第114連隊とは大日本帝国陸軍の連隊の一つで、上級単位は第18師団とあります。第18師団は皇室の紋章「菊」を与えられ「国軍最強」の軍団と言われていたようです。
7月には転属のため北九州門司港の港から出航した模様。
12月29日に第114連隊に転属し、同日に本部に編入したとのこと。


下記ウィキペディア参照↓





(〜中略〜)


★昭和19年(1944年)
4月29日、ウ号作戦及び○号作戦参加。
5月17日〜8月2日、ミッチーナ対空挺部隊戦闘参加。
8月2日、左側腹部盲管砲弾破片創により戦死
有名なインパール作戦に参加した模様。
ビルマ(ミャンマー)のミッチーナで戦闘に参加した様子。
左の側腹部に砲弾の破片があたり戦死したとあります。


下記ウィキペディア参照↓








21歳の若さでした。

大伯父の遺影




大伯父がどんな風に戦争に行き、そして亡くなっていったのかをこの軍歴証明書から知ることが出来ました。



どんな思いで逝ったんだろうか。



曾祖母は気丈な人だったというけど、息子を亡くしたときの曾祖母の気持ちを考えると心が痛くなります。
曾祖母ももちろん辛かっただろうし、こういうことが日本各地であったんですよね。



大伯父の短い一生を考えたとき、



恵まれたこの環境で、自分がどう生きるべきなのかを改めて考えさせられた気がします。




次回は曾祖母の弟(曾祖叔父)の戦争の記録にせまります!では😊