※2022年2月6日更新
朝晩と冷え込むようになってきましたね。
思えばもう9月も終わりに近づき1年の早さを感じる今日この頃です。
さて、お彼岸にお墓参りに行ってきました。
そこで、有田喜三治家に新たな進展があったので書きます。
有田喜三治家の詳細は下記の過去記事をご参照ください。
有田喜三治家はぼくの高祖母・きく(1838年〜1911年)の生家にあたります。
下記、家系図参照
この家でもっとも遡れた先祖は、きくの父・喜三治(1809年〜1898年)までです。
今回、たまたまこの家の江戸時代の古い墓石に『喜三治(次) 父』と彫られた墓石を見つけ、喜三治の父の没年と戒名が判明しました。
下写真参照
墓石には文政十三年(1830)と刻まれています。
その隣に、江戸時代の墓石がいくつか並んであり、『安政4年(1857)没 うら』と刻まれた女性や同じく『安政4年没 さよ』と刻まれた女性の墓石もありました。
この『うら』さんと『さよ』さんも、ぼくの先祖だと思われるのですが繋がりまではわかりませんでした。
ただ、墓石の位置や戒名から、『うら』が喜三治の妻?、『さよ』が喜三治の母?と推測してます。
このあたり、今回時間がなくちゃんと調査できなかったので、また後日調査したいと思います。
ちなみに、この墓石の位置や戒名から推測する方法ですが、例えば夫婦だと隣り合って墓石が並んでたり、戒名に同じ字が使われていたりということがあり、そこから繋がりを推測することが出来るそうです。
いずれにしても、お彼岸にお墓参りに行って、先祖のお墓を発見することができたということは、何かしらの先祖からのメッセージがあるんではないかと思ってます(*´﹃`*)
※2022年2月10日更新分↓
よくよく墓石の写真を見ると右側に「子」と干支が刻まれています。
文政十三年(1830年)の干支は「寅」なので、刻まれた干支とは一致しません。
「子」が干支の年は文政十一年(1828年)と、文化十三年(1816年)ですが、
何度見ても「文政」にしか見えない…
だけど、十三年にも見える…
喜三治父の没年は、
文化十三年(1816年) 子
もしくは
文政十一年(1828年) 子
のどちらかとなりそうです。
誰かそういうのにお詳しい方教えてください(泣)