ぼくの母方の曾祖父(母方祖父の父)・稲村益次郎(仮名とします)のことを書きたいと思います・・・・
稲村家については別の記事でも書いておりますのでそちらもご参照ください(^^)
https://ameblo.jp/okerokichi/entry-12595372344.html?frm=theme
https://ameblo.jp/okerokichi/entry-12593764555.html?frm=theme
曾祖父・益次郎は戸籍によると明治22年(1889年)12月5日に、父・久作、母・キクの二男(末っ子)として生まれています。
久作が54歳、キクが51歳のときの子どもです。
久作の年齢はまだわからなくもないですが、母であるキクは51歳で益次郎を生んでいることになります・・・
ウィキペディアによると高齢出産の中でも50歳以上での出産を超高齢出産と呼び、非常に少数の例外として自然妊娠して出産する事例はあると書かれています。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BD%A2%E5%87%BA%E7%94%A3
がしかし、時は明治半ば
医療も整っていない田舎の農村で、現在でも超高齢出産とされている50歳以上で出産ができたのかという疑問があります。。。
実は、このような事例は昔の戸籍の記載でよく見られることのようです。
というのも、この時代は例えば娘が未婚で子どもを出産すると親が自分の子どもとして戸籍に入籍させるということもあったようなんです。
ということは、曾祖父・益次郎ももしかすると久作とキクの子どもではなく、7人もいる姉のうちの誰かの子どもなのではないかと考えたわけです。
そこで益次郎の兄や姉たちの動向を元に益次郎誕生のナゾに迫ってみたいと思います・・・
益次郎には兄が1人、姉が7人います。
きょうだいの順番は下記です↓
名前はすべて仮名としています。
長女(益次郎の長姉)・ネロ
安政3年(1856年)生まれ
明治13年(1880年)、婿養子・勘十郎と結婚(24歳)
明治21年(1888年)7月4日、勘十郎と離婚(32歳)
明治27年(1894年)、500キロ以上離れた他県の男性と再婚(38歳)
長男(益次郎の長兄)・虎太郎
文久元年(1861年)生まれ
明治26年(1893年)、有田イクと結婚(32歳)
二女(益次郎の次姉)・詳細不明
戸籍に記載なしのため早くに亡くなったと思われる
三女(益次郎の三姉)・サキノ
明治元年(1868年)生まれ
明治25年(1892年)、隣村の徳田時松と結婚(24歳)
四女(益次郎の四姉)・詳細不明
戸籍に記載なしのため早くに亡くなったと思われる
五女(益次郎の五姉)・リカ
明治7年(1874年)生まれ
明治22年(1889年)12月7日、同村の植田春太郎と結婚(15歳)
六女(益次郎の六姉)・フミエ
明治11年(1878年)生まれ
明治28年(1895年)、同村の資産家・角替安松と結婚(17歳)
明治35年(1902年)、安松と離婚(24歳)
七女(益次郎の七姉)・コイシ
明治14年(1881年)生まれ
明治31年(1898年)、同村の夏木鶴吉と結婚(17歳)
二男・益次郎(ぼくの曾祖父)
明治22年(1889年)生まれ
大正4年(1915年)、悠木マツノ(ぼくの曾祖母)と結婚(26歳)
となります。
↑の中で、益次郎誕生と関わりがあるんではなかろうかと思われる部分が2箇所あります。
長女・ネロと五女・リカの動向のところです。青文字太字にしてます。
長女・ネロは明治21年(1888年)7月4日に婿養子・勘十郎と離婚。
翌年の明治22年(1889年)12月5日に益次郎は誕生している。
ここからはあくまで推測ですが、ネロは夫と離婚したが益次郎を妊娠し出産。
夫とは離婚したため自分の両親である久作とキクの二男として益次郎を入籍させた。
その後、ネロは500キロも離れた他県の男性と結婚し稲村家を出た。
五女・リカは明治22年(1889年)12月7日に同村の植田春太郎と結婚。
益次郎が生まれたのは上述の通り。リカの結婚の2日前です。
リカは益次郎を未婚で出産し、何らかの理由で自分の両親である久作とキクの二男として益次郎を入籍させた。
その後、植田家に嫁いでいった。
益次郎が本当は姉たちのうちの誰かの子どもだとしたら、
考えられるのは上の二人の姉のうちのどちらかかなと考えてます。
あくまで推測でしかありませんが。。。
もしくは、本当にキクさんが51歳で益次郎を出産したのか・・・
今となっては真相は闇の中ですが、、、
以上、曾祖父の出生のナゾについて考察してみました。